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わずか1年で、アジアのチャンピオンに!男子短距離界の新星エース・井谷俊介に迫る

中村竜也 -R.G.C

井谷俊介。彗星の如く、陸上男子短距離界に現れたの新たなエース。陸上競技を始めてわずか1年足らずという異例のスピードで、100mのアジアチャンピオンにまで上り詰めるという、離れ業を実際に成し遂げた男。その裏には自らの夢を実現するため、数々の困難に立ち向かい、自らの力で勝ちとったからこその“今”がある。そこで今回は、そんな井谷選手がアジア新記録を樹立するまでの歴史を辿り、掘り下げてみようと思う。

小学4年生から始めたレーシンカートと同時期に、野球と剣道も習っていたほどとにかく体を動かすことが大好きであった井谷選手。しかし、さすがに3つものスポーツを掛け持っていると、すべてに同じ情熱を注ぐことが難しくなってきたという。そして、少しずつ資金面での負担が大きいレーシングカートを諦めざる得ない状況へと。しかし車の免許取得をきっかけに、再びーレースへの想いが蘇る。

「そんな中、違う形でレースに関わっていくことが出来る事に気づき、サーキットで整備をやりながら、たまに乗ったりというスタンスに移ったんです。でも乗ってしまうとダメですね。またレースをしたいとう感情が出てきてしまい(笑)。でもその時は、プロを目指すというよりかは、カートレースが出来ればいいという感じではありました。言うならば趣味でしたね。

大学時代には、草レースではありますが、TOYOTAのヴィッツを改造して、耐久レースにも参加するなど、気持ちではプロになることを目指していました。色んなところに出向いては、様々な人にそのことを話し、どうしたらプロレーサーになれるか探っていたのですが、現実は厳しくて…。」

一度は諦めたカーレーサーという夢を、また違う形で楽しみ始めた井谷選手。しかし、現実とは酷なもの。新しい可能性を求め、動き出した最中に起きた不慮の事故により、右膝から下を失ってしまったのだ。

「『切断ってどういうことだろう』って感じで、どこか自分事に捉えらずに、頭の中が真っ白になりました。でも壊死してきている足の痛みはどんどん酷くなっていき、その苦痛にも耐えられないし、時間もない。そんな悩んでいる自分に主治医から、義足でもスポーツはできると言われことに、希望を感じ右膝から下の切断を決意したんです。とは言うもの、いざ切断となった時は本当に怖かったです。大人になると、子供の時みたいにお化けが怖いから泣くと言うようなことがなくなるじゃないですか、でもその時は膝から下が無くなることへの恐怖心で涙が出てきたのを覚えています」。2016年2月のことであった。

そこから始まった井谷俊介の第二幕

足を失ってから、アジアチャンピオンになるまでのスピードが尋常でないのが、井谷氏の凄いところ。長年競技をやっている選手の中には、それを面白くなく思う人もいたほどだ。
「義足を使用し、歩けるようになる期間は実際に早かったんです。歩行やカートも含めた車の運転と、僕の生活に必要な範囲はトントン拍子で上達していきました。僕自身、器用な部分と不器用な部分にすごく差がある人間なんですが、義足に関していうと器用な部分が上手く働いてくれたと思います。

それからすぐでした陸上競技との出会いは。退院して間もない2016年の4月。三重県に、老若男女問わず、義足の人たちで集まって走るというコミニュティチームがあるのですが、そこで皆さんと走らせてもらったのが第一歩です。手術後は、ゆっくりと歩く事しかしていなかったので、風を感じながら走るのってこんなに気持ちが良くて楽しいんだって思えたのがきっかけです。

それと2016年は、ちょうどリオ・パラリンピックがあったので、『もし僕がパラリンピックに出場したら、みんな喜んでくれるんだろうな』って考えたりもしてたんです。更にプロレーシングドライバーになれたら障がい者という概念も変わるのではないのかもしれないし、僕と同じような境遇の方に、勇気や希望を示せるのではないかなとも思いました」

人生を変えた、
カーレーサー・脇
寿一との出逢い

強い想いと夢を持ち続けたことで、数々の壁を乗り越えてきた井谷選手だが、そこにはもうひとつの要素、「出逢い」を引き寄せていたことも大きかったと言えるだろう。

「高校の時の野球部の監督に言われた、『行動と決断力を常に持ち続けて進め』いう言葉をずっと胸に留めています。そういう心構えでいるからこそ、何かのタイミングで人との縁が繋がってゆく。その連鎖によって、自分が向かうべき方向へと、自然に導かれて行くと思っています。

僕が今、すごくお世話になっている、プロレーシングドライバーの脇寿一さんとのご縁もまさにそんな感じでした。あるタイミングで、以前から用意していた企画書を渡す機会があり、健常者と一緒のレースで走っている現状や、パラリンピックにも出たいんですという夢を伝えさせてもらったんです。そうしたら、その翌日に連絡をくれ、そこからさらに色々と話していくうちに、先ずは陸上に専念しようということになり、そこから一気に可能性が広がっていきました。今では、東京の父として慕わせていただいています(笑)」

レーサーとしての哲学や人としてどうあるべきかなど、多くのことを脇選手から学んだという。この出逢いこそ、井谷選手にとっての人生のターニングポイントであったのだ。 快進撃の始まりである。 2017年の末から本格的な練習を始めた陸上競技(100m)。持ち前の身体能力と勘の良さで、誰もが予想だにしない結果を残していく。

そして2018年10月、ジャカルタで開催されたアジアパラ競技大会でその時がついに訪れた。前日の男子100m予選で11秒70のアジア新記録を叩き出した勢いそのままに、決勝では、同年9月の日本選手権で惜敗した前アジア記録保持者・佐藤圭太選手を振り切り、見事金メダルを獲得したのだ。

「今まで野球しかりカーレースでも、特に緊張したことはなかったのですが、こと陸上に関しては、スタートラインに立った瞬間に心臓がばくばくしてしまっていたんです。ですが、アジアパラ大会の時は今まで路と違いました。スタジアムの雰囲気を楽しめ、リラックスした状態でスタートラインに立つことが出来たんです。そして、今まで僕を支えてくれた方々の顔が頭をよぎり、ひとりで走るんじゃないなって思えたのも心強く、楽しくて仕方なかったです」

シーズンを通しての目標に、アジア記録を掲げていた井谷選手。予選でその目標を達成したことにより、まるで趣味で走るような感覚でレース運びができたと話してくれた。そう、すべてが追い風であり、出るべくして出た記録であったのだ。

井谷選手にとって、アジアチャンピオンはきっと通過点に過ぎないのだろう。なぜなら、さらなる高み、すなわち世界の頂点を目指しているから。そして、もうひとつ忘れてはならないのは、きっと近い将来カーレーサーとして活躍する井谷選手も楽しみにしたいと思う。

(text: 中村竜也 -R.G.C)

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車いすの女王 土田和歌子。驚きのトライアスロン転向宣言までの舞台裏【HEROS】前編

岸 由利子 | Yuriko Kishi

アイススレッジスピードレースと車いす陸上競技で、通算パラリンピック7大会に出場し、計7個のメダルを獲得。日本人として初めて夏季と冬季の両大会で金メダリストに輝くなど、四半世紀に渡るパラアスリート人生を最前線で走り続け、数々の伝説を残してきた車いすアスリート・土田和歌子選手。2016年リオ大会の女子マラソン(車いすT54)では、惜しくも、トップとわずか1秒差で4位に終わったが、その後、わずか3ヶ月の競技歴で初参戦したASTCパラトライアスロンアジア選手権(フィリピン)で優勝し、2017世界パラトライアスロンシリーズ横浜大会(女子PTWC)の出場権を得て優勝という新天地での快挙を成し遂げたのち、今年1月、トライアスロンへの転向を発表した。車いすマラソン女子の第一人者のこれまでとこれからを探るべく、土田選手に話を伺った。

パラリンピック後の1年は、
クロストレーニングを重視した挑戦の年

卓越した身体能力と強靭なメンタルを併せ持つトップアスリートがしのぎを削るパラリンピックは、微差が勝敗を分かつ過酷な世界。2016年リオ大会の女子マラソン(車いすT54)では、金メダルが期待された土田選手を含む上位7人の接戦が41km付近まで続いた末、残り1kmで全員がラストスパートをかけて競り合った。

「1位と1秒差の4位という結果に悔しい想いはありました。金メダルは獲れなかったけれど、これまで自分が取り組んできたことの成果として一つ収められたかなと思います。悔しい中でも満足のできるレースでした」

今年、競技生活25年目を迎えた土田選手。パラリンピックを終えた後の一年間はいつも、クロストレーニングを重視した毎日を過ごすのだという。

「私は、この一年間をすごく大事にしています。車いす陸上とは違うところで身体的な域を広げていくためにも、さまざまな競技をやっていくことで備わると思っていて、ロンドン大会の後も、ボクササイズやボルダリングなど、未経験の競技に取り組んできました。リオ大会後の一年も、色々とやってみようという挑戦の年でした」

治療がきっかけで見つけた、
トライアスロンという新たな光

リオ大会での雪辱を果たすべく、土田選手が挑んだのは、同年11月に開催された世界6大マラソンの一つであるニューヨークシティマラソン。ボストン・マラソン(車いすの部)を5連覇、東京マラソン(女子車いすの部)を9連覇し、2010年にはロンドンマラソン、ベルリンマラソンの両大会で優勝、2013年大分国際車いすマラソンでは、1時間38分07秒を記録し、世界記録を更新。2016年ホノルルマラソン(車いす部門女子の部)で10度目の優勝を収めるなど、輝かしい成績を残してきた土田選手だが、ニューヨークシティマラソンでは24km付近で無念の棄権となった。激しい運動が原因で起こる運動誘発喘息を発症していたのだ。

「帰国後にかかった医師からは、自分の状態と向き合いながら競技を続けることはできると前向きな診断をいただきました。“治療にも、体づくりのためにも、効果的だから、やってみては?”と薦めを受けて、12月頃から水泳を始めました。せっかくならスキルも磨きたいと思い、スイムスクールに通い始めたのと同時期に、ハンドサイクルもクロストレーニングの一つに取り入れました。そしてふと気づけば、トライアスロンができる条件が自然に整っていたんです。これもまた、私にとって未知の競技でしたが、治療がきっかけとなり、新たな目標ができました」

パラトライアスロンは、スイム(0.75km)、バイク(20km)、ラン(5km)の3種目を組み合わせた複合競技。車いす、切断、視覚障がいなどの選手が、障がいの種類と程度によって分けられたカテゴリーごと、男女別に順位を競い合う。ハンドサイクルとは、手でペダルを漕ぐ自転車のことで、車いす選手がバイク競技で使うもの。ランでは、土田選手が陸上競技で20年以上専門としてきた車いすレーサーを使用する。

世界トライアスロンシリーズに
初参戦で優勝するも、
「ここからが本当のスタート」

年が明けて、2017年2月、トライアスロンの本格的なトレーニングが始まった。競技歴わずか3ヶ月にして、4月末にはフィリピンのスービックベイで開催された「ASTCパラトライアスロンアジア選手権」に初参戦して優勝し、5月の「世界パラトライアスロンシリーズ横浜大会」の出場権を得た。2位との差が1分以上という快走で、女子PTHCクラスを1時間15分11秒で制し、みごと優勝を収めた。

「初心者にも関わらず、世界トップクラスの選手と戦えるチャンスをいただけて、本当に有難かったです。今回(横浜大会)は、たまたま上手くいって結果を出すことができましたが、私にとっては、ここからが本当のスタート。複合競技ゆえに、異なる体の使い方や動きを結びつけていく必要がありますし、日を追うごとに、難しさを実感しています。でも、すごく楽しいですね。カテゴリーは分かれますが、私が思うに、トライアスロンは、車いすの人も、切断の人も、ブラインドの人も、障がいの種類や程度に関係なく、そこにいる皆が同じレースの楽しさを分かち合える競技。男子選手も含めて、タイム差でスタートするんですけど、抜きつ抜かれつのせめぎ合いがあって、面白いですね」

トライアスロンは、スイム、バイク、ランの各競技のスキルを磨くと共に、いかに異なる自然環境に順応し、味方に付けられるかということが重要だという。とりわけオープンウォーターの海で泳ぐスイムパートは、プールとは違って、気候や水温などの条件が、選手のパフォーマンスに大きく影響する。ナショナルチームの強化スタッフの指導のもと、時に熱中症になりながら泳ぎ続けるなど、国内各地の海で出来る限りの練習を重ねてきた。しかし、9月にオランダ・ロッテルダムで行われた「ITU世界トライアスロンシリーズグランドファイナル」では、予想外の展開が土田選手を待ち受けていた。

「今の自分にどれくらいの力があるかを試せるチャンスだと思って参加しましたが、とにかく暑かったフィリピンとは打って変わって、ロッテルダムは気温一桁の寒さでした。20℃くらいの水温だと、基本的にはラクに泳げるのですが、大会当日の海水温は約17℃。(トライアスロンで)10年のキャリアがある選手でも、“こんなの初めて”というような水風呂状態の中、私は過呼吸症状を起こしてしまい、スタートできなかった。結果振るわず、残念でしたが、今後は、この経験を活かして、どんな条件下でも、750mを泳ぎ切ることのできる泳力をつけていきたいと思います。まずは、水風呂に入れるようにならないとです」

後編につづく

土田和歌子(Wakako Tsuchida)
1974年10月15日、東京都生まれ。高校2年の時に友人とドライブ中の交通事故で車いす生活に。93年からアイススレッジスピードレースを始め、98年長野大会1000m、1500mで金メダル、100m、500mで銀メダルを獲得。96年から陸上競技に転向し、04年アテネの5000mで金メダル、車いすマラソンではシドニーで銅メダル、アテネで銀メダルを獲得。パラリンピックには夏冬通算7大会に出場し、計7個のメダルを勝ち取ると共に、日本人初のパラリンピック夏冬両大会金メダリストになった。17年4月にフィリピンで開催されたASTCパラトライアスロンアジア選手権に初参戦して優勝し、5月の2017世界パラトライアスロンシリーズ横浜大会(女子PTHC)の出場権を得て優勝。04年10月より八千代工業所属。18年1月16日、パラトライアスロンへの転向を発表した。

(text: 岸 由利子 | Yuriko Kishi)

(photo: 壬生マリコ  写真提供:八千代工業)

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