コラボ COLLABORATION

「防災」をエンターテイメントとしてリリースする!?【HERO X RADIO vol.6】

HERO X 編集部

ウェブマガジンの枠を超え、リアルに会い、リアルに繋がり、リアルに広がるしかけを作り出すメディア「HERO X」のラジオ番組『HERO X RADIO』。前回第6回のアーカイブ動画を公開、また次回の公開収録は4月26日(金)となっている。

リアルと繋がる場としてスタートしたラジオ番組『HERO X RADIO』は、Shibuya Cross-FM (http://shibuyacrossfm.jp/)にて、毎週第2・第4金曜 13:00-13:50 にオンエア中。渋谷のシダックススタジオから生放送でお届け、ネットからのリアルタイム視聴もできる。パーソナリティーを務めるのは「HERO X」編集長の杉原行里と、株式会社マグネットにて様々なプロジェクトや広告のプロデュースを手がける傍ら「HERO X」プロデューサーを務める佐藤勇介。毎回、次世代を見据えて活躍する“HERO”をゲストに迎え、日本のあるべき未来をディスカッション、番組内で出たゲストとのアイデアのうち、より具体性のあるものについては製品やイベントに落とし込むことまで考えていく番組となっている。

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過去公開動画はこちら
第6回 HERO X RADIO 放送内容:
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第5回 HERO X RADIO 放送内容:
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第4回 HERO X RADIO 放送内容:
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第3回 HERO X RADIO 放送内容:You Tube
第2回 HERO X RADIO 放送内容You Tube
第1回 HERO X RADIO 放送内容You Tube
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前回第6回目のゲストは、東日本大震災の被災地である宮城県から防災、食、教育など様々な分野にまたがり命の未来をイノベーションする株式会社ワンテーブル代表取締役の島田昌幸さん。

島田昌幸さん

島田昌幸 (しまだ・まさゆき)
株式会社ワンテーブル代表取締役。大学在学中に教育ベンチャーを創業。地域おこしイベント事業を始める。2007年から国土交通省認定の観光地域プロデューサーとして活動し、数々の地域を手がける。企業のイベント、商品・サービス開発、事業開発などのプロジェクトも多数手がけ、2011年には中小企業初の日本CSR大賞準グランプリを受賞。

島田さんが代表取締役を務めるワンテーブルは、会社の所在地である宮城県から「日本を、世界を変えていきたい、さらには文化をみんなで作っていくというのが大事だ」という思いで活動している会社。ワンテーブル自体も東日本大震災で被災し辛い経験をしたが、「未来思考で前向きに、震災前よりもより良くなる社会、“食”をベースに、ワンテーブルならではの新しいコミュニケーションを生み出したい」と島田さんは語る。

現在は被災地を『シチノリゾート』としてプロデュースするなど復興支援をしつつ、“防災”をアップデートしていく取り組みとして水を必要としない“備蓄食”の開発も進めている。その一例として、これまで最長で保存期間1年だったところ、5年間保存できる備蓄用ゼリーを紹介。包装と充填の技術をそれぞれ高められる企業と共同開発したものだ。島田さんの精力的な活動と功績ついて杉原は「課題を見つけて仲間づくりができれば、誰にでもビジネスチャンスはある。島田さんはそれがうまい」と声を唸らせる。

番組の後半では、「一歩先の防災を考える」というテーマで、ワンテーブルとHERO Xでどういう未来を共に描けるか、3人の議論は白熱していく。

「日本に事例が多いもの、例えば高齢化社会や自然災害だったり、そこから生まれてくるアイデアをいかにハード、ソフト関係なく世の中に出していくか。今後日本が成長する中で大事な鍵になると思う」と杉原。ワンテーブルでは今、「床ずれを予防するサプリメント」の開発が進んでおり、車いすを日常的に使用している人にも転用できるかも、という島田さんの話に、杉原と佐藤は身を乗り出す。

ワンテーブルが提案する“防災”のソリューションに、“スポーツ”や“プロダクト”というキーワードでHERO Xがどうジョイントしていくのか!?

ぜひ公開動画をチェックしていただきたい。

また、次回第7回目となるオンエアは、4月26日(金)13時~。

三笠製作所 代表取締役・石田繁樹さんをゲストに迎え、どんな話が繰り広げられるのか。どうぞご期待ください。

石田繁樹さん

石田繁樹(いしだ・しげき)
愛知県に本社を置く電子制御を中心としたエンジニアリングメーカー、株式会社三笠製作所 代表取締役 。制御盤の開発・設計・製造を主力事業に欧州・アメリカ・中東に事業展開。自動運転のUBER型移動交番をドバイに納入。人が乗って操縦する巨大ロボット事業を運営。eスポーツの実業団の運営・人材育成。 堀江貴文氏がアドバイザーとなる自動配送ロボットHakobotへの参画などを行なっている。

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HERO X RADIO
毎週第2・第4金曜 13:00-13:50 ONAIR
http://shibuyacrossfm.jp/

(text: HERO X 編集部)

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独占取材!車いすレーサー伊藤智也 東京パラで生んだレガシー

宮本さおり

東京パラリンピックの本番直前に突然の階級替えを言い渡された車いす陸上レーサー伊藤智也選手。これまでに伊藤選手が出場してきたクラスより障がい度の軽いクラスへの変更を余儀なくされたことを伝える会見会場では、涙を浮かべる記者もいた。あの時、語ることのなかった心境を『HERO X』だけに語ってくれた。

涙の記者会見

出場不可でも心が折れなかったワケ

2022年秋、幕張の国際展示場で行なわれた国際福祉機器展H.C.Rの会場に現れた伊藤選手はいつも通りのくったくのない笑顔を見せてくれた。「久しぶり!あれ、アンリ痩せたんと違う?」と伊藤選手が話しかけたのはRDS代表の杉原行里だった。パラリンピックに向け、二人三脚でプロジェクトを作り上げてきた二人。H.C.Rへの出展は、伊藤選手のパフォーマンスを最大化するためにつくられた車いすレーサーの開発で培った技術を変換、一般車いすユーザーの車いすづくりを劇的に変える装置として生まれた「bespo」のお披露目という目的もあった。車いすのポジショニング計測からリハビリまでを可能にした世界初の装置「bespo」。


伊藤選手のレーサー開発にあたり生まれた「bespo」はパラに挑戦したからこそ生まれたレガシー。

「パラはこれを果たすための通過地点だったから、気持ちが折れなかったんだと思うわ」

展示ブースを訪れた伊藤選手の顔は晴れ晴れとしていた。

2021年8月のパラリンピック陸上競技レース直前、まさかのニュースが流れた。「メダル候補伊藤智也が階級変更で本命種目出られず」ニュースを見た関係者は起きた事態を理解するのにしばらく動きが止まっていた。その後、25日に開かれた会見で「相当ハイレベルなショック」と漏らした伊藤選手。伊藤選手の車いすを手がけてきた杉原に不穏な連絡が入ったのはそれよりも5日早い8月20日夜のことだった。

「あの時は僕も伊藤さんも23日にもう一度クラス分け審査をすると言われていたので、大丈夫だろうくらいに考えていた」(杉原)

だからこそ、他のチーム伊藤RDSメンバーにはこの連絡を伝えなかった。そしてはじまったクラス分け審査。普通はそれほど時間のかからない審査なのだが、伊藤選手の審査には5時間という時間が費やされた。

「今までの大会でそんなことありえんかったのやけど、2回の審査ともそれくらい時間がかかった」(伊藤選手)

その後に言い渡されたのがT52への出場を認めないというものだった。それに加えて、どいうわけかT53にも出場が認められないかもしれないという。とにかく、この事態を杉原に伝えなければと、意を決してスマホを操作した。

「アンリ、もしかしたらT53にも出られへんかも……」(伊藤選手)

「そうかぁ……」(杉原)

しばらく続いた沈黙。杉原のスマホ越しに聞こえてきた伊藤選手の声は、驚くほど冷静だった。だが、杉原の受けた印象とは裏腹に、電話をきった瞬間、抑えていた感情が伊藤選手にこみ上げる。

「なんでや!」

その足で監督室を訪れた。コロナ禍での開催のため、レースの終わった選手は48時間以内に選手村を出なくてはいけないというルールがあったからだ。退村はすなわち、チーム伊藤RDSメンバーにとってのパラリンピック終了を意味している。このまま終わりにしていいのか……。チームの夢の詰まった車いすレーサーを一度もコースを走らせることなく幕引きにいていいのか……。

「T53の400メートル1本でもいいからなんとか走らせてもらえんかな」

監督室を訪れた伊藤はこう監督たちに切り出した。IPCとの交渉は骨も折れる。日本代表選手は伊藤選手だけではない。ルールはルールやからと、扉を閉められることも覚悟していた。ところが、日本チームの監督メンバーからは交渉を快諾する答えが帰ってきたのだ。

「よし分かった!とにかく交渉してみるから」(監督)

翌朝7時過ぎ、杉原のもとにLINEが入る。

「T53で走れる」

ここで初めて、杉原はマシン制作に当たったチーム伊藤RDSメンバーに状況を報告した。

「なんでT52じゃないの?」

夜、連絡を受けたメンバーが続々と杉原のもとにやってくる。杉原はことの次第を一つずつ説明した。すると、メンバーは一斉に資料を探し始めた。クラス分け審査確定後に覆ったケースはないのか、1種目でもT52に出場する道はないのかと、パソコンのキーボードを叩く。このプロジェクトに関わるまで、車いす陸上を知らなかったというメンバーもいた。しかし、伊藤選手と共に歩んだ5年間は確実にメンバーの思いを熱くし、パラ種目である車いす陸上への関心を高め、今回の決定を自分事のように悔しがり、杉原のもとに駆けつけるほどの強い思いを抱かせるまでになっていた。

「クラス分けの決定が出た時に、もしおっちゃん(伊藤選手)と2人だけだったらあそこで二人とも気持ちが破綻していたかもしれない。踏ん張れたのは、とにかく、おっちゃんを走らせてやろうと、同じ方向を向いてくれる仲間がいたからだったと思います」(杉原)

葛藤の末に出した答えの先に見えたもの

IPCへの交渉の末、T53での出場が認められた伊藤選手。ところが、レースまでの間にはさらに、心を揺さぶられる連絡が入る。T53の400m走でもう一度、審査してあげましょうという話しが出たのだ。なぜ、元々のクラスであるT52での審査ではないのかという思いはあったものの、この審査(クラシフィケーション)次第では、元々出場を予定していたT52の1500m走に出られるかもしれないということだった。

一見すると、希望の持てる話しに見えるが、事はそう簡単な話しでもない。T52クラスに戻れれば、1500mでメダルは狙える。しかし、それを可能にするためには、その前に行なわれるT53 400m走を走らなければならない。健常者の競技同様に、いや、それ以上に選手はレースに向けてのウォーミングアップが必要で、T53の400mを走るのにも体の調整は不可欠だった。

「400mを全開でいけるだけのウォーミングアップをしてしまうと、もうその夜の1500mを走れるだけの体力は残らなくなる。しかし、ウォーミングアップをほどほどにして400mに出場すれば、間違いなく記録はぐだぐだになる。どちらかを選ばなければいけなかった」(伊藤選手)

そこまでしても、元のクラスであるT52で1500m走に出られるという保障はない。再審査をしてもらえるという報告は、一瞬の光と共に、葛藤の日々をつきつけた。

伊藤選手は数日間一人で考えた末に、食堂から帰る道すがら、杉原にどちらを選ぶかを相談するため電話をかけた。

「おっちゃん、もうええやん。いくだけいっとこうや」(杉原)

パラリンピックに出場する選手たちは全員が何かしらを背負ってきている。それはT53の人達も同じ事だ。必死でレースに挑む人達を横目に、失礼な走りをしてまでもT52のメダルを狙いたくはない。二人の意見は一致した。この会話で伊藤選手の気持ちは完全に吹っ切れた。元のクラスに戻れようが戻れまいが、与えられたレースに出場し、全力で走ると腹を決めた。

レース当日、普段のレースならば後半で力を振り絞るために序盤は周りの出方の様子見的な走りをするのだが、伊藤は序盤から驚くほどのスピードで走り出した。300メートルを超える辺りですでにタイムはT52の世界記録を上回っていた。これはさすがに、最後までこのスピードは保てないはず。杉原の予想は当たっていた。
伊藤選手の脳裏にはこの時、別の思いがあった。

NHKで放送されたT53 400m走 伊藤選手の走り

「いつもならば、出走から80mくらい、だいたい26漕ぎ目くらいで一度前を確認するんですよね。それからいろいろ計算しながら漕ぎ方を考える。でもあの時はぜんぜん前も見んと、全開でいった。一秒でも長くテレビに映って、チームメンバーに恩返しせなと思った」

これだけのスピードをもってしても障がい度の軽いT53クラスではトップ集団に食い込めず、伊藤選手は予選敗退となった。記録は57秒16。この年、練習では見たこともないほど悪い記録だった。

チーム伊藤RDSのパラリンピックはこうして幕を閉じた。だが、レガシーは残っている。伊藤選手が最大限の力を発揮できる車いすレーサーを開発するため、RDSが作り上げたシーティングシュミレーターロボ「SS01」、この技術がベースとなり、全ての車いすユーザーの車いす作りの利便性を上げ、リハビリテーションの役割もこなす「bespo」が生み出された。これらは伊藤選手がRDSと共にパラリンピックでメダルを目指したからこそ生まれたものだ。

「僕らのゴールはパラじゃない。」

伊藤選手をテストレーサーとして歩むRDSの開発は終わることなくこれからも続く。

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(text: 宮本さおり)

(photo: 増元幸司)

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