プロダクト PRODUCT

国際的な賞を受賞した「Communication Stick」の現在―商品化への挑戦と介護現場での発見

川瀬拓郎

若手起業家の登竜門としても知られる、国際エンジニアリングアワード・ジェームズ・ダイソン・アワード。「Communication Stick」と名付けた、高齢者外出支援のための杖を開発し、2016年の国内最優秀賞・国際TOP20受賞したのが三枝友仁氏だ。この若きデザイナーの受賞作のその後と、介護現場から見えてきたこれからのデザインについて話をうかがってきた。

― プロダクトデザイナーとして、現在はどのようなお仕事をしているのでしょうか?

「新規事業開発の支援をするコンサルティングファームでプロダクトデザイナーとして働いています。新しい事業をするための、アイデアを創出することをしています。対象となる分野は、食品から産業機器まで多岐に渡ります」

― ジェームズ・ダイソン・アワードに作品を提出するために、会社の業務と並行して開発を行っていたとのことですが。そもそも、なぜ介護や福祉の分野に興味を持ったのでしょうか?

「学生時代に出会った『生きのびるためのデザイン』という本がきっかけです。40年以上前の本なのですが、当時はピラミッド型社会の頂点に位置づけられる、ごく一部の人の需要を喚起するものがデザインとされていました。しかし、後の時代には、ピラミッド型社会の下層にいる人たちに働きかけるデザインが必要になってくるはずだし、それが社会変革を促すと書かれていたのですね。超高齢化社会を迎えた今、そのアイデアを自分なりに考えたとき、介護が必要な高齢者や障碍者のためのデザインがもっと必要になるし、それが実現できるはずだと考えたのです」

『生きのびるためのデザイン』ヴィクター・パパネック著、阿部公正訳:1974年/晶文社。

― 一般的にプロダクトデザイナーというと、車や家電製品をイメージしてしまいがちですが、かなり早い段階で介護への関心をお持ちだったのですね。

「確かにや家電製品のデザインで有名になった方はたくさんいますね。そうしたプロダクトデザイナーは、もともと好きであったり、オーディオ好きだったり、モノが好きということが出発点にあるように思います。でも、自分が考えるデザインとは、既に世の中にあるモノをデザインするのではなく、そもそも世の中にない概念をカタチにすることだと考えています。デザイン思考や人間中心設計を念頭に、さまざまなリサーチをしながら、人々の課題やニーズを掘り起こしていく作業が必要となります」

― すでにある具体的な商品や製品をデザインするよりも、そもそも“何を作るのか?”という立脚点こそデザインだということですね。

「もちろんクライアントワークですから、ある程度範囲は決まっていますが、ユーザーリサーチからわかった抽象的な概念の中から、“この辺りに機会がある”という領域を見つけて、そこを手掛かりに具体的なプロダクトやサービスのアイデアに落とし込んでいきます。先程もお話しした通り、需要を喚起するためのデザインではなく、人の役に立つデザインを目指していたことが、介護福祉分野への興味に繋がっています。桑沢デザイン研究所在学中に、福祉用具専門のデザイン会社で働いた経験も、介護福祉分野に関心を持つきっかけとなりました。そこにはデザイナーがあまり目を向けていない問題があるように感じたのです。介護者や被介護者が今までできなかったことができるようになり、生活水準が上がる。そういう現場を見てやりがいを感じられたことも大きな要因でした」

「Communication Stickは、介護者と被介護者をつなぐ新しい杖の提案。「音声からテキストメッセージ送信」「受信したテキストメッセージの音声読み上げ」「転倒時の位置情報通知」の3つの機能を実装しています。この3つの機能によって、外出における「迷子」と「転倒」の不安を解消し、被介護者と介護スタッフの両者にとって安心と安全な外出機会を提供します」

― 介護や福祉を語るとき、どうしても弱者を助けるという一面ばかりが強調されてしまいがちですが、そうした問題意識によってこの分野に導かれたということですね。さて、ジェームズ・ダイソン・アワードを受賞した「Communication Stick」ですが、こちらはその後どうなったのでしょうか?

「実際に製品化するために、Open ChallengeというDMM.make AKIBAのアクセレータープログラムに参加して、事業化に向けた取り組みをしました。まずやろうとしたことは、デザイン・モック(実際の商品外観が分かる試作品)と、ワーキング・モック(実際の商品機能が分かる試作品)を一体化することで、最終製品と同じような状態にして、ユーザーが利用できるか確かめることでした。しかし、そのためには数百万の資金が必要になり、個人としてはとても賄えない額でした。そうした資金面で最初につまずいてしまいました」

  

「Communication Stick」デザインモック

「Communication Stick」ワーキングモック

― ビジネスにつなげるためのハードルは高かったと。さらに商品化を妨げることがあったのでしょうか?

「次のつまずきは、介護施設の高齢者の外出支援ができるかということです。デザイナーとしての通常業務と並行し、エスノグラフィー調査として、小規模多機能型介護施設で働き、介護士の資格も取得しました。確かに、外出時における“転倒”と“迷子”の不安はありますが、外出できない理由はそれだけではなかったことが分かりました。例えば、認知症を患っていて、交通における危険察知能力が落ちている、排便機能が低下していて失禁の心配がある、そもそも行きたい場所がないなど、複雑に問題が絡み合っていました。当時は、それらすべてを本製品で解決することはできないと考え、資金面の問題もあり、開発を中断することにしました。しかし、今落ち着いて考えるとすべてを解決しなくていいと思っています。“転倒”と“迷子”に対する不安で外出を躊躇する人を支援できれば、それでいいのかもしれないと思っています」

― 介護士の処遇や労働環境については、さまざまな問題が報じられていますよね?

「どんな仕事でも精神的苦痛はあると思いますが、介護職には生理的苦痛もあることが問題だと思っています。特に気になることは臭いで、そこが改善されれば、労働環境の問題を少し軽減できるのではないかと思っています。それから、介護士の給与がその他の職種よりも低いとされるのは少し誤解があって、介護計画を作成するケアマネージャーや、介護施設の管理職までの職位になれば、給与は決して低くないと思います。問題になっているのは、マネジメントに行き着く前に介護士を辞めてしまう人が多いからだと思います。たしかに現場はきついということは事実としてありますが…」

― 介護を通じて、さまざまな問題点がさらに見えてきたのですね。

「また、もうひとつ分かったことは、介護行為は生活支援であって、断片的にではなく、連続的に物事を捉える必要があるということです。利用者の気持ちに寄り添う共感力がなければ、彼らの支援ができないということもわかりました。とある認知症の利用者がいたのですが、しょっちゅう周囲の人を叩くのですね。そのたびに介護士が止めるわけですが、その理由が分からない。とあるベテラン介護士の方がその利用者を見たところ、何か身体に具合が悪いところがあって、その痛みを訴えているのでは?と。そこで、検査してみたところ、胆石が発見できたのです。その時、介護職は誰にでもできる仕事ではないと思いました。この能力は、ユーザーに対するデザインにも同じことが言えるのではないでしょうか」

三枝 友仁(さいぐさ ともひと)
明治大学卒業。桑沢デザイン研究所デザイン専攻科プロダクトデザインコース卒業。在学時から福祉機器専門のデザインファームにプロダクトデザイナーとして勤務。高齢者の移動機器、食事介助具、排泄介助具、入浴用品等の開発に携わる。現在は、業務委託先にて主に新規事業開発に従事。国際エンジニアリングアワード・ジェームズ・ダイソン・アワード2016国内最優秀賞・国際TOP20受賞。

(text: 川瀬拓郎)

(photo: 増元幸司)

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義足のスペシャリスト臼井二美男は、なぜ“走る”にこだわるのか【the innovator】後編

長谷川茂雄

日本におけるスポーツ用義足作りのパイオニアとして知られ、義肢装具士として30年以上活動を続ける臼井二美男氏。かつてまだ日本でスポーツ用義足が普及していなかった1980年代から、自ら情報を収集し、数々のプロダクトを生み出した臼井氏は、オリジナルのクラブチームを発足させ、走ることの楽しさも伝え続けてきた。そこから多くのパラリンピック選手が生まれ、現在も日本代表選手たちの総合的なサポートを行っている。なぜ臼井氏は義足を作り、走ることの重要性を説くのか? 同氏が所属する鉄道弘済会義肢装具サポートセンターを訪ねた。

約170人が繋がっている
“スタートラインTOKYO”

臼井氏が発足させたクラブチームとは、“スタートラインTOKYO”のこと(発足時の名称は、ヘルスエンジェルス)。28年前から欠かすことなく義足で走るための“練習会”を開いてきた。

「今は練習会をやると70人ぐらいが集まりますよ。そのうち義足を履いている人は50人ぐらいです。多分規模的には世界一だと思います。グループLINEでは約170人が繋がっていて、北海道の方も佐賀県の方もいるんですが、遠方の方も月に1回は基本的にいらっしゃるんですよ。ここ6年ぐらいは、週に1回、近郊に住んでいる方を対象にした練習会も開いています。クラブチームは、年配の方は若い人と交流できるし、逆に若い人は年配の人から知恵を得られる。そういう交流も面白いですよね。人数が多いと大変だと思われるかもしれませんが、規制や決まりごとを作り過ぎないようにしていますから、こちらも参加するほうもストレスなく続けられています。いつの間にかチームが生き物のように勝手に進化するようになったのですが、それも興味深い現象です」

スタートラインTOKYO”には、難しい練習メニューなどはまったくなく、基礎的なストレッチをしたりウォーキングをしたりしながら、徐々にランニングを楽しんでいくという。どちらかというと1時間ほど自由に体を動かすイメージに近い。少しずつ大きなクラブチームに成長し、興味を持った関係者が全国から見学に訪れるようになった。今では同じような練習会を主催する病院や自治体が増えているという。実際にそこからパラリンピック選手も生まれている。

スタートライン TOKYOの参加者は、老若男女問わず、スポーツ用義足をつけて走ることの楽しさが体験できる。それは、さまざまスポーツにトライするきっかけにもなると臼井氏はいう。

「東京はもちろん、大阪や三重からも世界で活躍する選手が出てきています。だからといって練習会の目的は、パラリンピック選手を育てることではありません。もちろんパラリンピック出場を目指すというのは、モチベーションとしてはいいことだと思いますが、練習したからといって、誰でもパラリンピックに出られるわけではないですから。“スタートラインTOKYO”は、義足を履いていてもスポーツが楽しめるということを知るための入り口にしたいんです。陸上競技に固執しているわけではないのですが、走ることはすべての基礎になるので、それを薦めているのです。走れれば、卓球だって野球だってできる。しかも身体能力も上がりますし、気持ちも変わってくる。そういう人が増えることが、一番重要だと思っています」

たまたま義足の調整で訪れた村上さやか選手(長谷川体育施設陸上競技部)。東京2020パラリンピック日本代表候補の一人である彼女の義足も、臼井氏が長年手掛けてきた。

ニーズに応えるには
義肢装具士が試行錯誤するしかない

もはやスタートラインTOKYOの取り組みは多くのメディアに取り上げられ、30年近い臼井氏の活動は、大きなムーヴメントになろうとしている。加えて臼井氏は、パイオニアとして走るための義足開発も行ってきた。ランニング用の義足がまだ一般化していなかった時代から、いち早く研究、開発をしてきた経緯がある。

「自分が義足作りを始めた80年代は、全然情報がなかったですね。あるのは、義肢業界の学会誌とか、パーツメーカーからもらう冊子とか、そういうものでした。たまにアメリカ人やドイツ人が義足でパラリンピックに出場したとか、そういう記事を目にするぐらいで、どんな経緯で作られた義足がどのように活用されたとか、そういう細かな情報はありませんでした。スポーツ義足を作るにあたっては、もちろんいろんな前例を調べて自分なりに研究を進めてきましたけど、スポーツ用に限らず、義足は一人一人ニーズが細かく異なるので、結局は担当の義肢装具士が、それを実現させるために独自に試行錯誤するしかありません。ダンスをやりたい、バイクに乗りたい、泳ぎたい、というようにみなさんの想いは違う。それを叶える小さな約束を果たすのが、義足作りのような気がします。その積み重ねでここまで来ました」

家にいるのは1年で3日ぐらいです(笑)

あらゆるユーザーの希望に真摯に向き合い義足作りをしながら、クラブチームの運営、国際大会に出場するトップクラスの選手の相談にも乗る。臼井氏の活動はとにかく幅広く、驚くほど多忙に見える。実際、還暦を過ぎた今も仕事量は増えているという。

「今、同時進行で25人ぐらいの義足作りやケアをしているんですよ。もちろん若い人にも手伝ってはもらっていますが、正直、数年前より今のほうがさらに忙しいですよ(笑)。相談も増えていますし、スポーツをやってみたいという方も増えています。スポーツだけでなく、高価な義足を作ったけど、うまく歩けないとか、そういう相談も多いです。様々な要望に応えてイベントなどを企画していたら、ここ15年ぐらいまともに休みを取っていません(笑)。家に丸々いるのも年に3日ぐらいじゃないですかね。でもやりがいがあるんですよ。走れるようになって、みんなが元気になっていく姿を見るのはいいものです」

「ほぼ休みはない」と笑いながら話す臼井氏。全国から、あらゆる相談が絶えることはないという。

多忙を極める臼井氏の活動を見るだけでも、東京2020へ向けて、パラスポーツは盛り上がりを見せているように感じる。義足を履いていてもランニングを積極的にしたいという人が増えていると聞くと、日本は環境的にも充実しているような印象もある。ところが、現実はそうではなく、まだまだ課題が山積みだという。

「ウチに通っている義足ユーザーは3500人ぐらいいるのですが、スポーツに関わろうとして練習会に参加している方は、そのうちの100人程度です。全国で考えたら下肢切断者6〜7万人ぐらい。その多くが走ったりスポーツをしたりすることとは無縁の生活をしています。もっと競技用の義足に接する機会が必要ですし、話を聞いてくれたり提案をしてくれる義肢装具士の数も増やさなければならない。そうしないと次のステップに行けないと思います」

自分の満足度は、
まだ65点ぐらいですかね

スポーツ用の義足がどうやって手に入るかという情報も今はまだまだ足りていない。実際に履いてみると、どういう感覚になるのか? そういったことを体感できる機関も病院も少ないのが実情だ。もっと気軽にスポーツ用義足が体感できる環境があれば、積極的に体を動かすことを楽しむ人も増えるはずだ。そうなれば、必然的にパラアスリートを目指す人も増えるのではないか。

こちらは、臼井氏が手掛けた最新のランニング用義足。ミズノと今仙技術研究所が共同開発したもので、日本人の体型に合わせて、板状の足部の曲線をできるだけ小さく仕上げているという。

「パラリンピックに出場するようなトップクラスの選手には、もちろんスポンサーが付いたり支援の話も多いとは思うのですが、どちらかというとその前の育成のところをもっと充実させないと、パラスポーツ全体が伸びていかないと思っています。スポーツ用の車いすや義足が今よりも手に入りやすいシステムが必要ですし、義務教育の段階からスポーツをやりたい人たちが積極的にトライできるような行政や公費のサポートも大切です。“スポーツは趣味”というような捉え方は、改めていかなければならないと感じています」

日本で指折りのキャリアを持ちながら、今も現場で活躍している臼井氏。これからも後進の指導も含め、やりたいことは尽きないという。東京2020はもちろん、その先も義足の新たな可能性を追求することに変わりはない。仕事のペースや量を今よりも落としていくつもりもまったくないそうだ。

義足のパーツや試作品などが所狭しと置かれている研究室。臼井氏はこの場所とリハビリ室、製作室、屋上のランニング用施設などを日々休みなく動き回っている。

前編はこちら

臼井二美男(うすい・ふみお)
1955年、群馬生まれ。大学を中退後に、28歳で義肢装具士を目指し東京身体障害者福祉センター(現公益財団法人鉄道弘済会 義肢装具士サポートセンター)に入社。1989年から、それまで日本になかったスポーツ用義足の開発・製作を開始する。1991年、切断障がい者を対象としたランニングクラブ“ヘルスエンジェルス(現スタートラインTOKYO)”を設立。自らが先頭に立ち、義足ユーザーがスポーツすることの大切さを説いてきた。また、ランニングに関わらず、ユーザーの様々な要望(水泳、マタニティ、バイク、ファッションショーなど)に合わせた多くの義足を開発。2000年のシドニー大会以降は、パラリンピック日本代表のメカニックスタッフとして同行している。

(text: 長谷川茂雄)

(photo: 増元幸司)

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