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次は、あの国を倒して金を獲る!ウィルチェアーラグビー日本代表最強エース、池崎大輔 後編

岸 由利子 | Yuriko Kishi

車いす同士がぶつかり合う猛烈なコンタクトプレーで知られるウィルチェアーラグビー。選手たちがタックルを繰り返す度、コートには無骨な衝突音が鳴り響き、車いすごと吹っ飛び、転倒するとさらに激しい重低音がとどろき渡る。「マーダーボール(殺人球技)」や「車いすの格闘技」とも呼ばれるこの凄まじい競技において、日本代表チームは、2016年リオパラリンピックで強豪カナダを倒し、銅メダルを獲得した。我が国史上最強と評されるチームの主幹をなすのが、「世界の猛者6人」の1人と国際パラリンピック委員会が発表し、今や、世界の強豪国がマークする天下無双のポイントゲッター・池崎大輔選手。チーム一丸となって、東京2020で金メダル獲得を狙う池崎選手に話を伺った。

今以上に強くなれたら、
結果は必ずついてくる

4大会連続でパラリンピックに出場したウィルチェアーラグビー日本代表は、アテネ8位、北京7位、ロンドン4位、2016年リオ大会では銅メダルを獲得した。着々と成果を伸ばしてきた今、目指す先はただ一つ、東京2020での金メダル獲得。開幕まで903を切った中、池崎選手は、一番の課題についてこう話す。

「アスリートとして、当然、継続してやるべきことは、パフォーマンスアップ。それ以外でいうと、フィジカルとメンタルの強化です。今以上に強くなれば、もっと良いプレーができるだろうし、自分たちの思い描くプレーが可能になる。そうすれば、結果は必ずついてくると僕は信じています。2012年以来、アメリカでプレーしているのも、ラグビースキルとメンタルを鍛えるために、自ら選んだ手段の一つです」

米国では、個人選手として、現地のチームに参加してプレーしており、他にも、日本史上最強と言われる代表チームの中核である島川慎一選手や官野一彦選手らが、池崎選手と同様に米国で研鑚を積んでいるという。

この1月17日から、いよいよ2016年日本代表の強化合宿が始まる。猛者たちを率いるのは、リオ大会で強豪カナダ代表監督を務めたのち、昨年12月12日に新監督に就任したケビン・オアー氏だ。

「素晴らしいコーチです。選手とコミュニケーションを取るのが、極めて上手な方。豊富な知識や経験をお持ちの中で、僕たちが知らなかったこと、足りなかったことなどを分かりやすく教えてくださいます」

「チームメイトには期待しかない」と絶大な信頼を寄せる同志たちとも、池崎選手は、密接なコミュニケーションを取り合っている。

「選手間でも、さらなる高みを目指す話は常にしています。コーチ陣、スタッフ陣と色んなポジションがあって、僕が知らないところで誰かが大きく支えてくれているのかもしれない。でも、いち選手として確かに言えるのは、チームの皆が、金メダル獲得という同じ目標に向かって、チーム力、組織力を作るための努力をしているということです」

世界一のオーストラリアを倒して、
世界一になりたい

東京2020における目標と、そこに至るまでに自分たちが達成すべきこと。それらは、透き通るほど真っ直ぐに、明確に、池崎選手の中に強く刻まれている。

「オーストラリアには、やっぱり勝ちたいですね。なぜかと言うと、今、世界で1位だから。2位を倒しても2位にしかなれないけど、1位を倒せば1位になれる。東京2020で金を獲るためには、これから3年間で開催される国際大会で常に上位に入らなければならないし、2020年までには1度でも、1位か2位を獲らないと金メダルは獲得できない。僕はそう思っています」

ここで言う大会とは、今年6月に開催されるカナダカップ(2018 Canada Cup)、続く8月の世界選手権(GIO 2018 IWRF Wheelchair Rugby World Championship)、そして、2019年10月に東京体育館で世界のトップ8カ国が競い合う「2019 ワールド ウィルチェアーラグビー チャレンジ」などを指している。

「1位になったことのない人に、“1位ってどんな感じ?”と聞いても、想像だけでは分からないですよね。だからこそ、1位になった時の状況や環境など、自分の感覚でもって確かにイメージできるものを東京2020までに実現しておきたい。その責任とプレッシャーを味わっておきたい。自信もつけたいし、やる気も上げたい。金メダルを夢ではなく、実現するためにも、結果が欲しいです」

追う立場、追われる立場、
守る立場を作っておきたい

池崎選手が“厳重警戒”している選手は、強豪国のあちこちにいる。最強軍団オーストリアのライリー・バットクリストファー・ボンド。アメリカのチャールズ・アオキチャド・コーンカナダのトレヴォア・ハーシュフィールド。他にもザック・マデルがいるが、彼は今、競技から離れている。池崎選手いわく、「いつ戻って来て、次に何を仕掛けてくるか分からないアグレッシブな選手」だ。

「アメリカの選手は、現地のチームで一緒にプレーしているので分かりますが、オーストリアやカナダ、イギリスの選手については、国際大会で戦った時に、例えば、以前に比べて、スピードが速くなった、パスが正確になった、パスが飛ぶようになったと感じたなら、その変化に対して、自分はどうすればいいのか?何ができるのか?と考えます。すると、ここを伸ばそう、鍛えようという課題がおのずと見えてきます。海外の大会のライブ配信なども、細かくチェックしています。だって、こっちがやられてしまうので。自分が持っている情報と照らし合わせて、常に更新していかないと」

「各国の選手たちもまた、池崎選手を厳重警戒しているのでは?」と尋ねると、さらりと答えが返ってきた。「多分そうでしょうね。日本代表も追う立場であり、追われる立場、また守る立場を作っておきたいですね」

インタビューの前編でも話に上がったラグ車の開発を含む今後の動きについては、こう語る。

「乗ってみて、走ってみて、試合をしてみて。自分に(ラグ車が)合っているかどうかを本当に見極めるには、やっぱり時間がかかるんですよね。とはいえ、時間をかけすぎてしまうと、あっという間に2020年が来てしまう。今年1年は、自分が納得のいく“新しいスタイルの池崎”を作るために色々試しながら、体のことをケアして、トレーニングを積んでいきたい。2019年は、そろってきた身体と車いすを一つにするために、(ラグ車に)乗る時間を増やして、がっちり固めておかないと。そこから先は、さらに体を作っていく段階に入るので」

筋力がついてパワーが上がったとしても、それを車いすに上手く伝えることができなければ失敗。体が硬くなりすぎても、柔らかすぎても、自分の故障の原因になる。相棒・ラグ車とのバランスの取り方が、一番難しいそうだ。

「それらを一つずつ、丁寧に繋げていくことが不可欠であり、その小さな積み重ねこそが、自分を作ってくれています」

燃えたぎる闘志と揺るがない平常心を併せ持つ池崎大輔選手。東京2020では、ウィルチェアラグビーの歴史を塗り替える快進撃を、必ずや見せてくれるだろう。名実ともに、日本を代表する最強エースに心からエールを送りたい。

前編はこちら

池崎大輔(Daisuke Ikezaki)
1978年1月23日生まれ。北海道函館市出身。6歳の時、末梢神経が侵されて筋力が低下する進行性の神経難病、シャルコー・マリー・トゥース病と診断される。17歳の時、車いすバスケットボールを始める。2008年ウィルチェアラグビーに転向し、2009年北海道Big Dippersに入団。2010年4月、日本代表に選出され、8月の世界選手権(カナダ)では3.0クラスのベストプレイヤー賞を受賞し、代表チームは銅メダルを獲得。2012年ロンドンパラリンピックで4位入賞、2014年8月の世界選手権(デンマーク)で4位入賞したのち、2015年10月の三菱商事2015 IWRFアジアオセアニアチャンピオンシップで優勝を果たし、リオパラリンピック出場権を獲得。3.0クラスベストプレーヤー賞及びMVPを受賞した。2016年リオパラリンピックでは3位決定戦でカナダを破り、銅メダルを獲得。2016年より三菱商事株式会社に所属。

(text: 岸 由利子 | Yuriko Kishi)

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スポーツでゾクゾクしてる?
パラスポーツライター荒木美晴がジャーナリストとして伝えたいこと

朝倉奈緒

ピョンチャンパラリンピックが開幕し、数々のアスリートたちの活躍が注目されている。しかし多くの皆さんにとって、パラスポーツがここまでエキサイティングで面白いスポーツであることを知ったのは、ごく最近ではないだろうか? 本記事では、今日のようにパラスポーツが注目されるようになるまで、パラスポーツの魅力を伝え続けてきた人物を紹介したい。パラスポーツ専門のウェブサイト『MA SPORTS(http://masports.jp)』代表・荒木美晴さん、パラリンピックではシドニー大会から取材を続けているライターだ。HERO X編集部では、荒木さんをお招きし、ジャーナリストとしての視点から、パラスポーツの魅力と東京2020の課題についてお伺いした。

1998年の運命的な出会い。
それから20年、パラスポーツと選手の魅力を伝え続ける

時は1998年、長野パラリンピック。たまたま観戦することとなったアイススレッジホッケー(現:パラアイスホッケー)との出会いが、荒木さんの人生を変えた。氷上の格闘技とも呼ばれるスリリングなこの競技の、強い衝撃音とスピード感、想像を超えた競技の迫力に圧倒され、これまでにないゾクゾク感を覚えたという。パラスポーツに魅せられた荒木さんは、フリーのライターに転身、それ以来、書き手としてパラスポーツの魅力を伝え続けている。

そんな人生の転機もあり、今回のピョンチャン大会で2大会ぶりの出場となったパラアイスホッケー日本代表は、荒木さんにとって思い入れのあるチームだ。「日本では、キャプテンを務める北海道苫小牧市出身の須藤悟選手に期待したい」と荒木さんは目を輝かせる。

初めてのパラリンピック取材は、2000年のシドニー大会。それまでにも国内の大会等で取材は重ねてきたが、パラリンピックなどの大舞台に携わるのはこの大会が初。世界のレベルを目の当たりにし、心を躍らせた長野大会を思い出したという。このときの心境について、「アクレディテーションカード(資格認定証)を首からさげたときは誇らしい気持ちでいっぱいでした。現地ではメディアセンターで資料をもらい、会場までバスに乗り、ミックスゾーンへの動線があってと、行ってみないとわからないことがたくさんあり、周りの人に教えてもらいながら慎重に行動しました。事前の合宿取材で顔や名前を覚えてもらっていたので、ミックスゾーンで待っていたら喜んでくれた選手もいて。無我夢中でしたね。」と、荒木さんは18年前を振り返る。

ルールを知ることで、
想像を超えたパラスポーツの奥深さを知る

今や日本のパラアスリートの間では名の知られたベテランライターの荒木さんに、インタビューの際に心がけていることを聞いた。「特に意識していることはないのですが、その選手ならではの感情の出し方であったり、言葉以上のところを察知するのが記者だと思うので、そこは大事にしています。それには長く競技や選手を見ていないと難しいので、できるかぎり継続して取材活動をするよう努力しています。」荒木さんならではの細やかな心づかいが、選手との距離を縮める近道になったのだろう。

「夏季スポーツは、2004年アテネパラリンピックで、国枝慎吾選手と斎田悟司選手がダブルスで金メダルとったところから始まり、車いすテニスの取材を続けています。パラスポーツはどの競技も観るとすごく興味深く面白いのですが、競技のことを知らない人がまだまだ多いので、記事を通してもっと知ってもえるようにと、さまざまな切り口で情報発信するよう心掛けています

車いすテニスや車いすバスケットボールは、学校の授業などでテニスやバスケットボールの実技経験が一般的であることからイメージしやすいが、パラ競技名を聞いても、全く想像のつかないものもある。

例えばゴールボールは視覚に障がいを持つ人のためのオリジナル競技。いわば新しいスポーツなんです。選手たちはアイシェードをして、鈴入りのボールを転がし合い、相手ゴールを奪う競技なのですが、その奥深さったらありません。普段目が見えている私たちは、まず目隠しをしたら、普通に立っていることすらままならないのに、鈴の音だけを頼りにゴールを守る選手たち。『本当は見えてるんじゃ……?』と思わずにいられないほどのすさまじい集中力と投球技術は必見です。実は国内の大会は晴眼者もメンバーとして出場できるので、私もいつか挑戦してみたいと思っています

以前、インターネットテレビに出演し、パラスポーツの競技紹介や解説をしたことがあるという荒木さん。こんなコメンテーターがいたら、パラスポーツ観戦がグッと楽しくなるに違いない。

ジャーナリストとして本当に伝えたいこと

東京2020に向けてバリアフリー化が急速に進められ、パラリンピックへの注目も集まっている現在に比べて、荒木さんが取材を始めた頃は、パラリンピックの存在すら知らない人も少なくなかったという。当時、現場で取材していたのは、フリーライターと一部の大手メディアくらいだったという。新聞に載るのは結果のみで、文化面や生活面に掲載されることも多かった時代。そこを変えたい、と荒木さんは思っていたという。「いつ事故に遭い、周りの人にどんな励ましの言葉をもらって成長できたか」といった選手のバックボーンは興味も引くし、大事な要素。でも、選手がこうして活躍する裏に、どんな工夫や努力があったかを知らないのは、もったいない

「私は、当初からパラスポーツをきちんとスポーツの側面から伝えたいというのは一貫していました。『腕がない、足がないのに速く泳げて、走ることができてすごい』と観る人は言う。では『なぜ速いのか?』を伝えるのが、私たちの仕事。『ない部分をどう補い、アスリートとしてどう競技と向き合ってきたか』という部分も大事にしたい。近年は、様態は様々ですが、プロ選手として活動したり、競技に専念する環境を整える選手も増えてきました。スポーツである以上、結果が求められるわけですが、レースや試合の結果が伴わなければ、時に厳しく記事を書くこともあるでしょう。賛否両論あると思いますが、これからのパラスポーツに対するメディアの報道姿勢も変化の時を迎えていると感じます」

ロンドン、リオ、そして東京2020。
それぞれのパラリンピック

史上最も成功したと言われている2012年ロンドンパラリンピックで、現場取材の中にいた荒木さんが一番ゾクゾクしたのは、水泳競技会場での一幕。

「観客の声がより響く構造をした会場が、満員な上に大歓声で、私たちがビリビリ感じるくらいの熱狂ぶりでした。長野パラリンピックのときと同じ高揚感に包まれましたね。尊敬すべきなのは、イギリスの選手以外のことも応援していたこと。表彰式ではイギリスの選手が表彰台に立っていなくても、最後まで立って国歌を聞き、拍手を送り、選手が捌けるまでみんな会場に残っていた。どの国の選手にも、会場全体で敬意を表していました」会場には、パラリンピックを初めて観た人が多かったが、誰もが「本当に面白かった!」と満足気な様子だったという。

逆に、2016リオデジャネイロオリンピック・パラリンピックは、様々な不安要素を抱えたままの開幕となり、たしかに会場も空席が目立つ競技が多かったが、“サンバの国”ならではのノリノリな国民性によって、会場は笑顔と声援に包まれていたという。

そして、東京2020。10大会連続でパラリンピックの前線にいる荒木さんが楽しみにする一方で、特に心配しているのは、“ボランティア” の分野。「外国からきた人たちに『来てよかった』と思ってもらえる入り口となるのがボランティアたちの対応」日本はまだ世界的な規模の大会は経験が少なく、知らない外国人とのコミュニケーションにも不慣れだ。そんな中、本当に心のこもった『おもてなし』ができるかが課題である。

「東京まで、あと2年半。今回の平昌パラリンピックをきっかけに、パラスポーツに興味を持ってもらえたら。障がいの程度に応じたルールや道具の工夫を知れば、もっと楽しいと感じるはず。パラリンピック競技以外にもたくさんのパラスポーツがあるし、観戦が無料の大会も多いので、身近なところからぜひ会場に足を運んで、生でパラスポーツの魅力に触れてほしいです」

荒木美晴
1998年長野パラリンピックでパラアイスホッケーを観戦 。その迫力とパワーに圧倒され、スポーツとしてのパラスポーツのトリコに。この世界の魅力を伝えるべく、OLからライターへ転身し、パラスポーツの現場に通う日々を送る。国内外におけるパラスポーツの認知度向上と発展を願い、障がい者スポーツ専門サイト「MA SPORTS」を設立。『Sportsnavi』『web Sportiva』などスポーツ系メディアにも寄稿している。パラリンピックは2000年のシドニー、ソルトレークシティ、アテネ、トリノ、北京、バンクーバー、ロンドン、ソチ、リオ、平昌大会を取材。

MA SPORTS
http://masports.jp

(text: 朝倉奈緒)

(photo: 壬生マリコ)

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