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5つのメダルを持つ義足のサイクリストが、東京2020の先に見つめるものとは?【藤田征樹:HEROS】前編

長谷川茂雄

パラリンピックでは、初出場した北京大会で日本の義足のアスリートとして初めてメダルを獲得し、以降、ロンドン、リオデジャネイロの3大会連続でメダルを獲得。加えて、世界選手権でも2度優勝という輝かしい実績を積み上げてきた藤田征樹選手(日立建機)は、もはや多くのスポーツファンや自転車競技者にとってのヒーローと言っても過言ではない。とはいえ本人は、まだ競技者として発展途上だと言い切る。自転車と義足を自在に操るサイクリストとして、まだまだ満足の領域には達していないのだ。そんな藤田選手にとって「東京2020」とはどんな意味を持つのか? そしてその先にあるものとは? 広大な日立建機の茨城・土浦工場の一角で、率直な思いを語っていただいた。

自転車の上で強い力を出し続けられることが重要

東京2020”に出場を果たせば、自身4回目のパラリンピックとなる。それだけでも偉業だが、藤田選手は誰よりもそれを冷静に受け止めようとしている。国の代表を務めることの責任感と重圧感を、これまで幾度も味わい、その都度跳ね除けてきた。とはいえ、やはり自国開催は、いやがおうにも特別なプレッシャーがのし掛かる。

「やはり東京2020”は、これまで自分が経験したどの大会よりも、注目が集まりますし、より多くの人に関わっていただくのでプレッシャーは大きくなると思います。皆がフォーカスするのは、勝てるかどうか? メダルが取れるかどうか? ですよね。それに大会を通じて義肢や車いすなど、障がいへの認知が進んだら良いと思いますし、そういう意味でも自国開催の意義は大きいです。出場枠を取って優勝をめざして一生懸命頑張る。そこは常に変わりません」

経験値も実績も十分だと誰もがいう。それとともに世界が東京を見つめる大会で、結果を残して欲しいと誰もが願う。その重責は他ならぬ本人が一番理解している。だからこそ、日々自らのアップデートには余念がない。

「もう自分としてはアップデートしっぱなしですよ(笑)。毎シーズン、進歩しているのか常に自問しています。北京、ロンドン、リオまでの各々の取り組みや積み重ねが東京に向かって活きると思います。今はフィジカル、メンタルなどすべてを底上げしていけるようトレーニングに取り組んでいます。もっとも大切なことは、自転車の上で、より自在に、繰返し強い力を出し続けられること。それができる強い選手をめざして、努力したいですね」

自転車と体のベストポジションを探る

ハンドルやサドルは、経験を積むごとに最適なポジションがわかってきたという。ちょっとした調整の違いが大きな差を生む。

世界レベルの選手と対等に戦い続けることは並大抵ではない。だからこそ常に自分を追い込み高めていく必要があるが、同時に己のキャラクターや得意不得意を理解することも大切だと藤田選手はいう。それは自転車競技ならではのことでもある。

「海外に出て強い選手と戦うと、常に自分が足りていないものが見えてきます。それに、若い選手が成長し、新しい選手が増えるなど、競技レベルがどんどん高くなっているので、その状況でも優勝争いができるよう力を付けていく必要があります。あとロード種目の場合、コースも大会開催地によって平坦、登り坂などの地形、天気や風などの気象条件が大きく変わります。コースや障がいの種類により選手の得意不得意は変わってきますから、自分やライバルの特徴を理解して、どのように戦うかを考えて走ることが大切なんです。それは自転車競技の面白さだと思います」

自転車を動かすのは人である以上、選手自体の力が一番重要なのは間違いない。ただ、コースや対峙する他の選手の特性も考慮したうえで、自転車のコントロールの仕方を変える必要もあるのだ。同時に自らの力をどれだけ上手に自転車に伝えられるかも常に追求しなければならない。そのためには、ハンドルやサドルのベストポジションを探る必要があるという。

「自転車競技は、自転車の上で人間のパフォーマンスを長い時間、最大限に発揮する必要があります。そのためには、自転車の乗車姿勢が大切になってきます。乗車姿勢はハンドルやサドルの位置で決まりますし、義足であることも大きく影響します。自転車の硬さや柔らかさも人間のパフォーマンスを発揮する上では大きな要素だと思っています。自転車の場合、人間がエンジンになりますし、そのエンジンが効率よく働かなくてはいけないわけです。」

藤田征樹(ふじた・まさき)
1985年、北海道生まれ。大学進学後はトライアスロン部に所属。2004年に事故で両下脚を損傷し、切断。2006年には、義足を着けてトライアスロン大会への出場を果たし、2007年より本格的に自転車競技のトレーニングを開始する。同年世界選手権で2位(1㎞TT:LC3)。2008年北京パラリンピックより、3大会連続で出場し、そのすべてでメダルを獲得(北京: [1㎞TT:LC3-4、3㎞個人追抜:LC3]、銅[ロードTT:LC3]、ロンドン:[ロードTT:C3]、リオデジャネイロ:[ロードTT:C3])。日本人初の義足のパラリンピック・メダリストとしても脚光を浴びる。2009年(1㎞TT:LC3)、2015年(ロードレース:C3)の世界選手権では金メダルに輝いている。日立建機株式会社勤務、チームチェブロ所属。
TT=タイムトライアルの略。

後編につづく

(text: 長谷川茂雄)

(photo: 壬生マリコ)

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命知らずのライダーが、命がけでつくった伝説【ブルース・クック】

岸 由利子 | Yuriko Kishi

FMX(フリースタイルモトクロスバイク)の世界で、『生きる伝説』として名高いブルース・クック。世界中で熱狂の渦を巻き起こし、観衆を魅了し続ける前代未聞のFMXライダー。彼について、こう説明することもできますが、超絶ドラマティックなその人生を語るには、あまりにも言葉が足りません。生きる伝説と呼ばれる理由とは、一体何なのか?ブルース・クックを知るうえで、ひとつめのキーポイントになるのは、「ナイトロ・サーカス」。まずは、このお話から始めましょう。

命知らずのライダーが、命がけで挑んだ世界初のトリック

ナイトロ・サーカスは、FMX、BMX(バイシクルモトクロス)やインラインスケートなどの世界トップクラスの選手たちによるアメリカ生まれのアクション&スポーツ エンターテイメント・ショー。2009年にMTVのリアリティ番組としてスタートしましたが、グランドキャニオンからバイクでダイブするなど、常軌を逸した過激なスタントに涼しい顔で挑む選手たちの姿が人気を呼び、2010年からワールドツアーでライブを開始し、イギリス、オーストラリアやドバイなど、26カ国160都市で300万人を動員。2015年には日本初となる上陸を果たし、大きな話題を呼びました。

バイクに夢中の少年時代を過ごしたブルース・クックは、2005年、念願のプロライダーの道に転向し、北米全土のショーや国内の大会への参戦をスタート。“命知らずのライダー”として着実に知名度を上げていき、2012年、エクストリーム・スポーツの世界的競技大会「Xゲームズ」でデビュー。その後、ナイトロ・サーカスに初出演して以来、人気選手の一人として活躍していました。

2014年1月3日、カナダのオンタリオ州ハミルトンで開催されたナイトロ・サーカスでは、ダブル・フロント・フリップ(前方2回宙返り)に挑み、世界初の記録を打ち立てるはずでした。ところが、本番で着地に失敗。一命は取りとめたものの、脊椎損傷により下半身不随の体に。

彼のライダー生命は絶たれてしまった。あの華麗なパフォーマンスをもう二度拝むことはできないー将来を嘱望されていた選手の予期せぬ事故に、世界中のファンたちは悲嘆に暮れました。

ただでさえ危険な印象の強かったナイトロ・サーカスのスタントショー。カナダ全土のメディアで大きく報道された彼の事故は、その印象を増幅させてしまったーそのことを知ったブルース・クックは立ち上がります。「今回の事故で傷ついたのは自分だけではない。だからこそ、同じ競技を愛する仲間の笑顔を消してはいけない」と。

不屈の精神で、大事故から華麗にカムバック

もう一つ、ブルース・クックの背中を押したのは、ナイトロ・サーカスのリーダーであり、事故の起きた“ランプ”(ジャンプ台)を開発したトラヴィス・パストラーナの存在でした。事故に対する責任を感じて、意気消沈したトラヴィスの姿を見て、「これ以上、落ち込んで欲しくない」と思い、事故からわずか10日でリハビリを開始し、3ヶ月後には再びバイクに乗ることを決意します。

その後、半年をかけて、背中と膝を固定させるための器具を取り付けるなどして、バイクを彼の体に合わせて改造し、事故から10ヶ月後には運転の練習を再開。モトクロスバイクを乗り回す姿を動画で披露して、世間を驚かせました。

下半身不随の体は、ふんばりなどのコントロールが全く効かないため、ジャンプなどの技は不可能に近いとされていましたが、決してあきらめなかったブルース・クック。不屈の精神で練習を重ねた結果、大事故から1年9ヶ月後の2015年10月14日、カナダのオンタリオ州トロントで開催されたナイトロ・サーカスで、大喝采が湧き起こる中、バック・フリップ(後方1回宙返り)を決めて、みごと復帰を果たしたのです。

絶え間ないチャレンジと努力で、不可能を可能に変えていく

今年2月19日、東京ドームで開催された「ナイトロ・サーカス10周年ワールドツアー」でも、磨き抜かれたバック・フリップを披露しました。この日、筆者は、ブルース・クックのパフォーマンスを初めて間近に見たのですが、車いすに乗り、舞台に登場した彼の穏やかでリラックスした印象から一転、モトクロスバイクにまたがり、ハンドルを握ったとたん、緊迫した会場の空気に火を点けるかのように、彼の全身からは、熱くほとばしるエネルギーが感じられました。

何事においても、「これくらいが自分の限界だろう」と折り合いをつけて、ピリオドを打つことは、ある意味で自分を守るためには必要な行為。しかし、それは自分の可能性を狭めることも意味します。ブルース・クックの素晴らしさは、それを決して自分に許さず、未だ見ぬ未来への希望を胸に、不可能を可能に変えていくべく、チャレンジと努力を続けていること。

事故に遭う以前は、「自分のために競技を続けてきた」というブルース・クックですが、今、彼の闘志を突き動かすのは、仲間や観客たちの存在。サポートしてくれる誰か、応援してくれる誰かがいるからこそ、走り続ける。その人たちのために走り続けるー彼が生きる伝説と評される真髄は、ここにあります。伝説のアップデートに、乞うご期待ください。

ブルース・クック 公式サイト
https://www.brucecook.ca/

(text: 岸 由利子 | Yuriko Kishi)

(photo: 長尾真志 | Masashi Nagao)

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