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日本一かっこよく義足を履きこなすパラアスリート、佐藤圭太【HEROS】

朝倉奈緒

陸上競技で活躍する義足のパラアスリート、佐藤圭太選手。ロンドンパラリンピック4×100mリレー4位入賞、リオパラリンピックでは同種目で銅メダルを獲得。東京2020でもメダルが期待される彼が東京・豊洲でトレーニングを行うという噂を聞き、早速駆けつけた。台風一過の晴天の元、静寂に包まれた新豊洲Brilliaランニングスタジアムで一人走る姿を追いつつ、活躍ぶりを伺った。

「負ける気も負けるつもりもない」
意志で挑む、東京2020

佐藤選手は昨年9月に福島で開催された「2017ジャパンパラ陸上競技大会」で、100m、200m、走り幅跳び競技において1位(T44クラス)という好成績を収めた。しかし、「満足のいく走りができましたか?」という問いには「そうでもない」と意外な返答が。新しい義足で挑んだところ、板部分の反発の感覚を掴みきれず、スタート時の角度が高くなり、体が起き上がってしまったそうだ。そのため、効率よく加速できるスタートダッシュが行えなかったのである。義足10年選手の佐藤選手であっても、義足のアスリートにとって、競技用義足をいかにマスターするかが、タイムを縮める大きな鍵となるのだ。

メダルが期待される東京2020まであと2年となったが、同大会では、リレーの選抜方法が変わり、男女混合リレーが初めて採用されることになった。これまでは、佐藤選手のいる「切断」を含む種類のクラスから4名選出されていたが、東京2020では障がいクラスがミックスされ、選手たちにとってはより厳しい選抜形式になる

そんな佐藤選手のライバルともいえるのが、池田樹生選手。大学(中京大)の後輩で、同じ障がいクラスの義足義手のアスリートだ。池田選手もXiborgの義足を履いており、2016年ジャパンパラ陸上競技大会の400m部門で佐藤選手の持つ日本記録を更新し、金メダルを獲得した。「負ける気も負けるつもりもない」と意気込む佐藤選手だが、その表情は後輩の顔を想像してなのか、心なしか穏やかだ。

ちなみにリレー種目においては、走順も大きなポイントとなる。佐藤選手は第2走者だが、基本的に4×100mリレーは第1,3走者が曲線、第2,4走者が直線コースを走る。義足の選手はカーブ走行が苦手な傾向があるため、腕などの上肢にハンディのある選手が第1,3走者となるのだそう。パラスポーツならではの連携プレーが試される競技であり、パラスポーツ観戦を楽しむ醍醐味ともいえる。

「義足」ばかりが注目されるべきではない。
「義足の図書館」がきっかけで社会に働きかけたい思い

この日取材に訪れた新豊洲BrilliaランニングスタジアムXiborgラボ内には、佐藤選手もチームの一員となっているクラウドファンディングプロジェクト「義足の図書館(http://hero-x.jp/movie/603/)、2017年10月中旬にオープンしたばかり。愛知県豊田市に本社があるトヨタ自動車の正社員である佐藤選手も、オープンしてから初めてこの場所を訪れた。

佐藤選手がこのプロジェクトの一員となったのは、発起人であるXiborg社の遠藤謙さんからの声掛けだ。はじめは迷いもあったそうだが、プロジェクトの内容に共感し、何より自分自身が楽しめそうだと思い、参加することにしたのだという。「ここはあくまでも拠点として、いいきっかけづくりができたらと思います」と、佐藤選手はプロジェクトの構想について話しはじめた。

「例えば義足で生活している子どもが、日常用の義足で走ることが好きになれるか?といえば、難しいと思います。体育の時間でも、他の子と同じようには走れず、それが苦痛な時間になってしまう。僕は競技用の義足を15歳のとき初めて履きましたが、『もう一度走ることができるかも』と、すごく嬉しい気持ちになった。日常用の義足では『走るのは無理だな』と諦めていたのですが、競技用の義足は弾むように走ることができて、走ることの楽しさを思い出したんです」

日常用の義足は、生活必需品なので保険が適応され、自己負担金が少ない。一方、競技用の義足は“趣味のもの”扱いになり、保険適応外となるので、高額な義足を個人が購入するにはかなり負担が大きくなるのだ。

「これは義足だけでなく、例えば競技用の車いすにも、同じような取り組みができると思います。『義足の図書館』が社会にそのようなアピールをするきっかけのひとつになればと感じています」

義足を体験!

目の前にこれだけの種類の義足があるのに、健常な足がある限り、どれも試せないなんて….。と悔しさを思わず言葉にした筆者に、佐藤選手は子ども用ではあるが、義足を体験するための機器を試させてくれた。両足を固定されるので最初は立つのもやっとではあったが、体験義足でスタジアム内のトラックを思い切り駆け抜けた。「気持ちいい!楽しい!…そして、重い」というのが率直な感想。「重い」というのは、自分の体重に合った義足であれば、克服できるとのこと。(子ども用の義足は私の体重に対してバネの反発力が小さかったようだ)

義足のパラアスリートは、義足をどれだけ使いこなせるかがポイントとなる。身体的な要素よりも技術的な要素が重要となり、それらの進歩によって一人の選手が現役でいられる年月も長くなる。佐藤選手は現在26歳。これから10年、20年と、グレードアップされる義足と共に、佐藤選手のテクニックも磨かれていくだろう。そして、未来には足の有無に関わらず、競技用の義足を履いてスポーツを楽しむ人たちで、スタジアム内は活気に満ち溢れているに違いない。

佐藤圭太(さとう・けいた)
1991年生まれ静岡県藤枝市出身。トヨタ自動車所属の障がい者陸上競技選手。種目は短距離(100m200m)、障がいクラスはT4415歳のとき右下肢にユーイング肉腫を患い、膝下15cm以下を切断。2012年ロンドンパラリンピックに出場し、4×100mリレーで4位、2014年仁川アジアパラ競技大会では100m200m4×100mリレー全ての種目で優勝。2016年リオパラリンピックでは4×100mリレーで銅メダル、2017年パラ世界選手権でも同種目にて銅メダル。100m200mにおける自己ベストでは、共にT44クラスにおいて日本記録、アジア記録を樹立している。東京2020での金メダル獲得に向けて猛トレーニング中。

(text: 朝倉奈緒)

(photo: 増元幸司)

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レーサー長屋宏和が、ファッションデザイナーになった理由

中村竜也 -R.G.C

14歳から始めたレーシングカートをきっかけに、レースの世界へとのめり込み、若手レーシングドライバーの登竜門“フォーミュラ・ドリーム“や、「勝てるF1ドライバー」を育てるプログラム“フォーミュラ・ルノー・キャンパス””への挑戦を経て、2002年より全日本F3選手権のレーサーとして活躍していた長屋宏和氏。 そして同年、鈴鹿サーキットで開催されF1日本グランプリの前座レースにて、頸椎損傷四肢麻痺という重度の障害を負い車椅子生活を余儀なくされることになった、あの未曾有の大クラッシュに巻き込まれることに。 しかし長屋氏の人生の第2章はそこからスタートするのである。あの大事故から僅か2年という短いスパンで苦境から這い上がり、レーサーとしての復活。そして自らが直面した車椅子生活での不便から立ち上げたファッションブランド“ピロ・レーシング”に至るまでのお話を今回伺った。

著書にもある「それでも僕は諦めないと」心に誓ったきっかけとは?

「あの事故からの入院生活が一ヶ月半ほど経った時に、手首を返す力を出すのに精一杯だったんですね。他は一切動きませんでした。自分としたら、『一体いつになったらまた動けるようになんるんだ』と当然考えますよね。そこで思い切って今置かれている状況を担当医に聞くことに決めたんです。帰ってきた答えは、レースにも復帰できなし一生車椅子生活を送ることになると残酷なものでした。それはショックですよ。

そしてその晩お見舞いに来てくれた幼馴染ににも、本当のことを伝えてくれなったことに対して詰め寄ったんです。しかし、彼は、『俺はそんな言葉より、またレースに復帰することを信じているから』と言ってくれたんです。そこから、周りの方がポジティブでいてくれるのに、僕がネガティブな考えでいるのは申し訳ないと思い、そこから僕も諦めないで生きると決めました」。そんなことを思ったからとすぐに、気持ちの切り替えができるものではないと正直感じた。その屈託のない笑顔からは想像できない、強い覚悟をその瞬間に決めたのであろう。

挑戦こそが、自らに課せられた使命

とはいうもの、やはりすぐには自分の置かれた状態を受け入れることができなかった部分もあったという。しかし、2年間という厳しいリハビリと共にある入院生活の中で、徐々に気持ちの変化が現れ、ついにレーサーとしての復帰を迎えたのであった。もちろん復帰までの道のりは、我々が容易に想像できるものではないであっただろう。

「レースに復帰したからといって、今まで通りのドライビングが出来るわけないですよね。頭ではこうやればもっと速く走れるのにと分かっているのに、自分の体が制御出来ないわけですよ。そういった場面に直面する度に悩みましたが、そこでちゃんと自分と向き合うことで、何が出来て、何ができないかということが明確になりました。違う言い方をすれば、僕は何をすべきなのかと考えられるようになったんです。」。

長屋氏が監督を務めるレーシングチーム(photo: 秋山昌輝)

そこから始まった、ファッションデザイナーと言うもう一人の自分

レーサーに復帰しても、今までとは確実に違う自分がそこにはいる。若手の育成を始め、伝え教える側に立ったとしても葛藤はあったであろう。ましてや夢を追うだけではなく、生活をしていかなくてはいけないという現実とも向き合わなくてはいけない時期にも来ていた時。

「洋服の生地の固さや、ポケットの縫い目などが、車椅子生活にとっては床ずれの原因になってしまうんです。そういった部分が、意外と無下になっていることに気づき、だったら着たいものを作ってしまおうと思ったんです」。ファッションデザイナー長屋宏和の始まりだ。

「入院中はしょうがないにしても、退院したら着たいと思う洋服を着たいじゃないですか。なんてことのない普通のことをしたいなという気持ちから、第二の人生がスタートしました。最初はこの道の先輩である母と一緒に、自分のための洋服のリフォームを始め、サンプルのジーンズをとりあえず完成させたんですが、正直こんなの履きたくないと思うような仕上がりだったんです(笑)。

そこから試行錯誤を繰り返し、初めてこれなら自分で履きたいと思えるジーンズができた時に、同じ悩みを持っている方にも使ってもらいたいなと思ったのをきっかけに、チェアウォーカー・ファッションブランド“ピロレーシング”を立ち上げました」。
車椅子生活者なら誰でも通る悩みを見逃すことなく、ビジネスチャンスへと変えた長屋氏。数々の苦悩を経験しなかったら、そこにはたどり着けていなかったかもしれない。彼の話を聞いていると、ポジティブでいることの大切さをひしひしと感じさせられる。

上段 通常のデニム。 下段 長屋氏がデザインしたデニムはお尻周りにゆとりがあり、ポケットのステッチやファスナーなどが負担にならないよう、気配りがされている。

「実際に、デザインした洋服を買っていただいたお客様の声というのがすごく嬉しくて、今の僕の源になっているのは間違いないです。ちょっと話は変わるかもしれないですが、僕のような体になると、銀座にある自分の店に来るのにも、駅員さんにスロープを出していただいたりするので、僕一人ではここまで来られないわけです。そう考えると、仕事もプライベートも僕の周りにいる方達には感謝しかありませんよね」。

彼の言った言葉で印象的なフレーズがあった。「事故があったから今の自分があると思っています」。深い言葉である。経験しないと見えない世界へ踏み込む勇気を持つこと。また、私たちが日常生活を送る中で埋もれてしまったり、忘れがちな感情をしっかりと感じながら生きられるようになっという意味であろう。今回のインタビューで、初めてポジティブでいることの本当の意味を理解できた気がした。

長屋宏和オフィシャルブログ
https://ameblo.jp/piroracing/

ピロ レーシング
銀座三越4F アトリエ ロングハウス内
東京都中央区銀座4-6-16 | 03-3562-7012

(top photo: 澤田賢治)

(text: 中村竜也 -R.G.C)

(photo: 長尾真志)

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