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世界最高のパラリンピアンに密着!「WHO I AM」に奔走する熱きプロデューサー

朝倉 奈緒

WOWOWと国際パラリンピック委員会(IPC)が共同で立ち上げ、2016年から東京2020までの5年に渡り、世界最高峰のパラアスリートに密着し、私生活から競技本番での勇姿まで、トップアスリートとして輝く彼らの魅力を描くドキュメンタリーシリーズ「WHO I AM」。プロデューサーとして、10月スタートの“シーズン2” 制作真っ只中である太田慎也さんに、見所などをお聞きした。

プロジェクト立ち上げの一週間後にはグラスゴーへ。そこで目にしたものは…

ーどのような経緯で「WHO I AM」をスタートすることになったのですか?

WOWOWは、国境に関係なく、世界中のトップエンターテイメントを集めたチャンネルなんですが、東京2020年に向けて「WOWOWらしい2020年にしよう」と考えていました。そこで、パラリンピックが持つ力だったり、ボーダーを破っていくという考えが、WOWOWの精神に近いのではないか、という話になりました。また、WOWOWがオリジナルのドキュメンタリーを制作していた経緯もあったので、「パラアスリートたちの物語をきちんと伝える番組を作りたい」とIPCに提案したんです。そして、IPCのご理解とご協力を得て、世界中のパラリンピアンたちのドキュメンタリーを、5年にわたり制作・放送するプロジェクトがスタートしました。

ー当時もドキュメンタリーのプロデューサーをされていたということですが、「WHO I AM」の担当プロデューサーに抜擢されたときのお気持ちは?

新らしいプロジェクトのプロデューサーに自分が選ばれたということはうれしかったのですが、 当時はパラリンピックのことをほとんど知らなくて。もしかしたら今の日本のほとんどの人がそうかもなと思うのでうすが、「かわいそうな人たちが頑張っている」とか、「応援してあげなくちゃいけない」というような気持ちが僕にも少なからずあったんです。勉強しなくちゃ、という戸惑いもありましたね。

ー制作を開始されてからこれまでに何ヶ国をまわり、どのくらいのパラアスリートに会われたのでしょうか。

国内はもちろん色々と行きましたが、海外はスコットランド、カタール、オランダ、イラン、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ブラジル、韓国、メキシコ、イタリアですね。一緒にやっている後輩のプロデューサーが英語が堪能なので、イギリス、アメリカ、オーストラリアなどの英語圏へ行ってもらって手分けしています。最初に行ったのは2015年にスコットランド・グラスゴーで開催されたIPC水泳世界選手権ですが、プロジェクトを立ち上げて一週間後に「まずは世界最高峰の舞台を見なきゃ!」と、スタッフみんなで行きました。

ー海外のパラ世界選手権を観て、何か考えが変わりましたか?

僕らの視野がいかに狭かったか、愕然としました。まず、選手同士が「普段どういうトレーニングしているの?」「その義足見せてよ」とか、お互い認め合っていて、すごく明るくコミュニケーションを取っている。どこかで「障害のある人はかわいそうだ」とか「助けてあげなきゃ」と思っていた自分の価値観がガラガラと崩れ落ちて、スタッフみんなで「すごい場所に来たんだね」と鳥肌が立ちました。そのまま一週間、大会に熱中してメモを取ったり、会いたい選手がいたら追いかけたりと、現場の雰囲気をできるだけ吸収しました。

世界で圧倒的な実績を誇るパラアスリートをピックアップ

ーたくさんの選手に会われた中から、どのような基準でシーズン1の8人を選抜されたのですか?

「世界最高のものを見せたい」というのがWOWOWのベースにあるので、まず世界中の実績抜群の選手をリサーチしました。シーズン1”で登場するブラジルのダニエル・ディアス選手はパラリンピックで24個メダルを持っていて男子水泳史上最多。国枝慎吾選手は世界中の全パラアスリートの中でも圧倒的な存在だし、他にも陸上で世界記録を持っている、ブラインドサッカーでパラリンピック3連覇しているとか、まずはすごい選手をピックアップしよう、というところから始めて。また、最初のシーズンなので視聴者にお届けするにあたり、できるだけ馴染みがある競技を選ぶようにしました。あとは色々な国、競技、障害の種類のバランスを考えるようにしました。

ーひとりの選手につき、制作期間はどれくらいですか?

選手にもよりますが、ブラジルやヨーロッパなど遠方ですと、1週間~10日くらいのサイズのロケを2回ほど。あとは、シーズン1でいうとリオパラリンピックがありました。一度目できちんとご挨拶をして、日常生活やトレーニングなど撮らせていただく中で、シーズン1”ならその選手がリオに向けて何にフォーカスしているかを探る。怪我の克服なのか、技術的な課題なのか、ライバルを意識しているのか。目線を決め、焦点を絞った状態で、二度目にそこを中心に撮影しにいく。ドキュメンタリー制作では基本の手法ですね。

“シーズン2”はよりそれぞれの人間ドラマを描いた内容に

ー10月よりシーズン2「世界のメダリスト8人。 舞台は平昌、そして東京へ。」がスタートしますね。見所を教えてください。

シーズン1”はわかりやすい競技を選んだというのもありますし、何よりもリオパラリンピックラがあったので「8人の選手のリオまでの道」というのを追ったんですね。シーズン2”では、今年はパラリンピックがないので、もっと人間ドラマというか、彼らの「人と人をつなげたい」とか「人の意識を変えたい」といった思いにフォーカスした、勝敗以外の要素も含むドキュメンタリーになっています。あとは来年の3月にピョンチャン冬季パラリンピックがあるので、冬季の選手にも注目しようということで、3名の選手を取材しています。

ー日本のアルペンスキーヤー、森井大輝選手をピックアップした理由は何でしょうか。

日本人選手はシーズン1”は国枝選手、シーズン2”は森井選手と一人ずつなのですが、まず「世界最高の人を描きたい」というのが最優先なので、「日本人だから」ではなく、世界を見渡してトップレベルの選手を選んでいることは間違いないです。とはいえ、日本の視聴者にお届けするには、やはり日本人選手がラインナップされていた方が伝えやすいし、注目されやすいというのもあります。森井選手は、パラリンピックで銀メダルを3つも持っていながら、金メダルを持っていない。「あと一個足りないピースを獲りにピョンチャンに挑む」というストーリーが、ドキュメンタリーとしては見応えがあるという嗅覚もありますね。ご本人はもちろん勝敗にもこだわっていますが、オールジャパンとして日本代表のみんなが勝つかどうかや、アルペンスキー全体のブームアップだとか、日本における障がい者に対しての価値観を変えたいという気持ちがベースにあるし、変えるだけの力のある選手なので、面白くなると思います。期待していてください。

伝えたいのは、最高に人生をエンジョイしている彼らを観て、「自分はどうなのか」考えること

ーシーズン1の番組内で登場した「勝利の精神や感謝の心を持つ人は何らかの形で大きな困難を経験した人だと思う」というリカルディーニョの言葉が印象的でした。それぞれに障害を抱え、それを乗り越えた上で競技に臨み、勝利を手にしたパラリンピックメダリストたちは、健常者のメダリストとはまた別の強さを持っていると思います。ドキュメンタリーで描きたかった一番のポイントは何ですか?

強さはもちろんありますが、あくまでもトップアスリートとしての強さであって、そこに違いはないと思います。また、彼らの言葉を聞いていると、パラアスリートだからとか、障がい者だから言えることだとは感じません。リカルディーニョは、「僕にとって困難はただ乗り越えるためにある」とも言っていて、それって健常者の僕らにも刺さる言葉で、誰にでも当てはまることなんですよね。人生をエンジョイしているから、輝いている人だから、何かを勝ち取った人だから言えることだと定義して、普遍的な言葉をたくさん抽出して番組に散りばめています。だから観た人が「この選手、人生エンジョイしているけど、自分はどうなんだろう。この人ほどエンジョイできているだろうか」と感じてほしくてそういう言葉を並べたし、タイトルも「WHO I AM =自分」にしたんです。「あなたはどうですか?彼らほど人生を楽しめてますか?」ということを、番組を通して伝えたいんです。

ー今後、番組をどのように展開していく予定ですか?

シーズン3以降についてはまだ具体的なことは決まっていないのですが、ピョンチャンパラリンピックが終わったら、日本が一気に東京2020に向かっていき、たくさんの人がその空気に触れていく機会が増えると思います。そんなとき、常にメディアとして半歩先に行っていたいな、というのが僕らの思いです。日本にも素晴らしい選手はもちろんたくさんいますが、「世界最高の選手たちを知っていますか?」「彼らのようなスーパースターが東京の街にやってきますよ」ということを提示しているWOWOWでいたいですね。

  • 2020年まで5年にわたるパラリンピック・ドキュメンタリーシリーズのシーズン2
    平昌・東京を揺るがすメダリスト8人を1選手5分でチェックできる特別番組、パラリンピック・ドキュメンタリーシリーズ 「WHO I AM <5分版>」が、9月2日(土)午前9:45 WOWOWプライム 他 随時無料で放送
  • パラリンピック・ドキュメンタリーシリーズ 「WHO I AM」シーズン2
    「パラリンピックに舞い降りた最強の不死鳥:ベアトリーチェ・ヴィオ」
    1029日(日)夜900 WOWOWプライム(無料放送)「元陸軍兵 3度の世界女王:メリッサ・ストックウェル
    1029日(日)夜1000 WOWOWプライム

詳しくは番組HP
http://www.wowow.co.jp/documentary/whoiam/

(text: 朝倉 奈緒)

(photo: 壬生マリコ)

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わずか1年で、アジアのチャンピオンに!男子短距離界の新星エース・井谷俊介に迫る

中村竜也 -R.G.C

井谷俊介。彗星の如く、陸上男子短距離界に現れたの新たなエース。陸上競技を始めてわずか1年足らずという異例のスピードで、100mのアジアチャンピオンにまで上り詰めるという、離れ業を実際に成し遂げた男。その裏には自らの夢を実現するため、数々の困難に立ち向かい、自らの力で勝ちとったからこその“今”がある。そこで今回は、そんな井谷選手がアジア新記録を樹立するまでの歴史を辿り、掘り下げてみようと思う。

小学4年生から始めたレーシンカートと同時期に、野球と剣道も習っていたほどとにかく体を動かすことが大好きであった井谷選手。しかし、さすがに3つものスポーツを掛け持っていると、すべてに同じ情熱を注ぐことが難しくなってきたという。そして、少しずつ資金面での負担が大きいレーシングカートを諦めざる得ない状況へと。しかし車の免許取得をきっかけに、再びーレースへの想いが蘇る。

「そんな中、違う形でレースに関わっていくことが出来る事に気づき、サーキットで整備をやりながら、たまに乗ったりというスタンスに移ったんです。でも乗ってしまうとダメですね。またレースをしたいとう感情が出てきてしまい(笑)。でもその時は、プロを目指すというよりかは、カートレースが出来ればいいという感じではありました。言うならば趣味でしたね。

大学時代には、草レースではありますが、TOYOTAのヴィッツを改造して、耐久レースにも参加するなど、気持ちではプロになることを目指していました。色んなところに出向いては、様々な人にそのことを話し、どうしたらプロレーサーになれるか探っていたのですが、現実は厳しくて…。」

一度は諦めたカーレーサーという夢を、また違う形で楽しみ始めた井谷選手。しかし、現実とは酷なもの。新しい可能性を求め、動き出した最中に起きた不慮の事故により、右膝から下を失ってしまったのだ。

「『切断ってどういうことだろう』って感じで、どこか自分事に捉えらずに、頭の中が真っ白になりました。でも壊死してきている足の痛みはどんどん酷くなっていき、その苦痛にも耐えられないし、時間もない。そんな悩んでいる自分に主治医から、義足でもスポーツはできると言われことに、希望を感じ右膝から下の切断を決意したんです。とは言うもの、いざ切断となった時は本当に怖かったです。大人になると、子供の時みたいにお化けが怖いから泣くと言うようなことがなくなるじゃないですか、でもその時は膝から下が無くなることへの恐怖心で涙が出てきたのを覚えています」。2016年2月のことであった。

そこから始まった井谷俊介の第二幕

足を失ってから、アジアチャンピオンになるまでのスピードが尋常でないのが、井谷氏の凄いところ。長年競技をやっている選手の中には、それを面白くなく思う人もいたほどだ。
「義足を使用し、歩けるようになる期間は実際に早かったんです。歩行やカートも含めた車の運転と、僕の生活に必要な範囲はトントン拍子で上達していきました。僕自身、器用な部分と不器用な部分にすごく差がある人間なんですが、義足に関していうと器用な部分が上手く働いてくれたと思います。

それからすぐでした陸上競技との出会いは。退院して間もない2016年の4月。三重県に、老若男女問わず、義足の人たちで集まって走るというコミニュティチームがあるのですが、そこで皆さんと走らせてもらったのが第一歩です。手術後は、ゆっくりと歩く事しかしていなかったので、風を感じながら走るのってこんなに気持ちが良くて楽しいんだって思えたのがきっかけです。

それと2016年は、ちょうどリオ・パラリンピックがあったので、『もし僕がパラリンピックに出場したら、みんな喜んでくれるんだろうな』って考えたりもしてたんです。更にプロレーシングドライバーになれたら障がい者という概念も変わるのではないのかもしれないし、僕と同じような境遇の方に、勇気や希望を示せるのではないかなとも思いました」

人生を変えた、
カーレーサー・脇
寿一との出逢い

強い想いと夢を持ち続けたことで、数々の壁を乗り越えてきた井谷選手だが、そこにはもうひとつの要素、「出逢い」を引き寄せていたことも大きかったと言えるだろう。

「高校の時の野球部の監督に言われた、『行動と決断力を常に持ち続けて進め』いう言葉をずっと胸に留めています。そういう心構えでいるからこそ、何かのタイミングで人との縁が繋がってゆく。その連鎖によって、自分が向かうべき方向へと、自然に導かれて行くと思っています。

僕が今、すごくお世話になっている、プロレーシングドライバーの脇寿一さんとのご縁もまさにそんな感じでした。あるタイミングで、以前から用意していた企画書を渡す機会があり、健常者と一緒のレースで走っている現状や、パラリンピックにも出たいんですという夢を伝えさせてもらったんです。そうしたら、その翌日に連絡をくれ、そこからさらに色々と話していくうちに、先ずは陸上に専念しようということになり、そこから一気に可能性が広がっていきました。今では、東京の父として慕わせていただいています(笑)」

レーサーとしての哲学や人としてどうあるべきかなど、多くのことを脇選手から学んだという。この出逢いこそ、井谷選手にとっての人生のターニングポイントであったのだ。 快進撃の始まりである。 2017年の末から本格的な練習を始めた陸上競技(100m)。持ち前の身体能力と勘の良さで、誰もが予想だにしない結果を残していく。

そして2018年10月、ジャカルタで開催されたアジアパラ競技大会でその時がついに訪れた。前日の男子100m予選で11秒70のアジア新記録を叩き出した勢いそのままに、決勝では、同年9月の日本選手権で惜敗した前アジア記録保持者・佐藤圭太選手を振り切り、見事金メダルを獲得したのだ。

「今まで野球しかりカーレースでも、特に緊張したことはなかったのですが、こと陸上に関しては、スタートラインに立った瞬間に心臓がばくばくしてしまっていたんです。ですが、アジアパラ大会の時は今まで路と違いました。スタジアムの雰囲気を楽しめ、リラックスした状態でスタートラインに立つことが出来たんです。そして、今まで僕を支えてくれた方々の顔が頭をよぎり、ひとりで走るんじゃないなって思えたのも心強く、楽しくて仕方なかったです」

シーズンを通しての目標に、アジア記録を掲げていた井谷選手。予選でその目標を達成したことにより、まるで趣味で走るような感覚でレース運びができたと話してくれた。そう、すべてが追い風であり、出るべくして出た記録であったのだ。

井谷選手にとって、アジアチャンピオンはきっと通過点に過ぎないのだろう。なぜなら、さらなる高み、すなわち世界の頂点を目指しているから。そして、もうひとつ忘れてはならないのは、きっと近い将来カーレーサーとして活躍する井谷選手も楽しみにしたいと思う。

(text: 中村竜也 -R.G.C)

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