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スラロームの王者が再び狙う、世界の頂点 【鈴木猛史:2018年冬季パラリンピック注目選手】後編

岸 由利子 | Yuriko Kishi

冬季パラリンピックの競技において、世界中からひと際熱い眼差しが注がれるチェアスキー。高校3年生の時、トリノパラリンピックに初出場して以来、三大会連続の出場を果たしたチェアスキーヤー、KYB所属の鈴木猛史選手は、バンクーバーではジャイアント・スラローム(大回転)で銅メダル、ソチではダウンヒル(滑降)で銅メダル、スラローム(回転)で金メダルを獲得し、世界の頂点に立った。“回転のスペシャリスト”の異名を持つ覇者は今、2度目の頂点を目指すべく、目前に迫るピョンチャンパラリンピックに向けて着々と準備を進めている。チリ合宿から帰国したばかりの鈴木選手に話を聞いた。

KYBという心強い味方があってこそ、僕がいる

同じチェアスキーでも、海外選手の場合、合宿先やレース本番で、ショックアブソーバというサスペンションの部品が折れるなど、何らかのアクシデントが起きた場合、ほとんどはその時点で終了となる。理由は至ってシンプル、技術面でサポートできる人がいないからだ。しかし、鈴木選手をはじめ、日本の強化指定選手には、非常事態にも難なく対応できる心強い味方がいる。ショックアブゾーバの部品開発を行うエンジニアを筆頭に、卓越した腕を持つKYBの技術者たちだ。中でも、海外遠征や合宿に帯同し、選手たちからその場で聞いた要望に沿って、細かな調整を行い、直ちに仕様を変えてしまうというテクニシャンの存在について、鈴木選手はこう語る。

「その方がいてくださるだけで、安心して練習に打ち込めますし、レースにも集中できます。このような体制に恵まれているのは、現状日本だけなので、海外の選手からは、羨ましい!ってよく言われますね(笑)。本当に助けられています」

ダウンヒル(滑降)で銅メダル、スラローム(回転)で金メダルを獲得したソチから約4年。ピョンチャンに向けて、鈴木選手のマシンはどのように進化したのだろうか。

「シートやショックアブソーバについては、かなり細かく調整を行っていますが、とりわけ大きな改造はしていません。僕は自分の感覚を頼りに、“もっと、ここをこうしたい”というアイデアや意見を各技術者の方に伝えて、それらが反映されたマシンにまた乗って、体感的に確かめていくタイプ。ですので、細かいと言っても、先輩方(森井大輝選手、狩野亮選手)の緻密なこだわりに比べれば、足元にも及ばないと思います。滑りにしても、かなり感覚的な方です。“なんで、そんな滑りができるんだ?”と聞かれても、体で覚えているから、言葉でどう表せばいいのか、僕には分からない。うまく説明できるに越したことはないのですが、トークは得意な先輩方にお任せしたいなと(笑)」

失敗から学んだ自己管理の大切さ

「オンとオフはきっちり分けて、休む時はきちんと休むようにしています。休む勇気も大事ですね。それは、初めて出場したトリノパラリンピックの時に身をもって学びました。当時の僕はまだ高校3年生で、寝れば回復するだろうと思っていたのですが、やはり間違いでした。パラ大会前もレースがありましたし、休みなく練習していたことも関係していたと思います。大会の前半戦、40度近い高熱が出て、体調を崩してしまい、1レース棄権しました。失敗を経験して、自己管理の大切さに改めて気づかされました」

食事も、その時々の体調を第一に考えたメニュー構成だ。疲れている時は、無理して食べるのではなく、食べられるものを口にする。鈴木選手の胃袋を温かく満たすのは、昨年結婚したばかりの妻・響子さんの手料理だ。

「食事の面だけでなく、精神的な面でも助けられています。弱音を吐きたくなる時、優しく耳を傾けてくれる一方、諭される時もありますが(笑)、しっかり支えてもらっていることに感謝しています。もしかしたら今、自分はひとりぼっちだと思っている人がいるかもしれません。でも、人間は皆、力を合わせて、支え合いながら生きている。応援してくださる方をはじめ、僕自身、周りの人たちに助けられてきたところが大きいから、余計にそう思う気持ちが強いかもしれませんが、今後、どこかで僕の競技を観てもらえる機会があったとしたら、“ひとりじゃないよ”と全身で伝えたいです」

全員ライバル。
「でも、あの選手にだけは絶対負けたくない」

2018年ピョンチャンパラリンピックで、メダル獲得が期待されるのは、日本が誇る“チェアスキーヤー御三家”こと、森井大輝選手、狩野亮選手、そして鈴木選手。しかし、3人の背中を追って、国内外の選手たちも切磋琢磨し、近年は世界的なレベルも格段に上がっているという。

「金メダルを獲ることがずっと夢でした。でも、ソチの表彰台に立った時、この金メダルは自分が獲ったというよりも、皆さんのおかげで獲れたもの。重さはその証だと実感しました。その方たちのためにピョンチャンでも獲りに行きたいです。できれば、自慢できるようなメダルを。厳しい状況の中で競って獲得できたメダルの方が、簡単に獲れてしまうものより、ずっと面白いし、嬉しさも倍増しますよね。それは、応援してくださる方も僕も同じだと思っています」

「ライバルは全選手」と話すが、強いて特定するとしたら、誰?そう尋ねると、オランダの若干17歳のユルン・カンプシャー選手の名前が挙がった。

「僕と同じ、両足切断の選手で、昨年の世界選手権では、金メダルを3つ獲得しています。これがまた、カッコいい滑り方をするんです。同じ障がいを持つ選手ということもあって、僕が得意としているスラローム(回転)では負けたくないですね、絶対。あらゆるプレッシャーをいかに勝つための力に変えていくか。これは、自身にとっての課題のひとつです」

技術系種目のスラローム(回転)で、抜きん出た実力を世界に知らしめた人は、意外にも、自分の感覚を何より大切にしている人だった。曇り一つない、澄みきった素顔を垣間見て、期待はさらに募る。今後も、さらなる鈴木選手の活動を追っていく。

前編はこちら

鈴木猛史(Takeshi Suzuki)
1988年生まれ。福島県猪苗代町出身のチェアスキーヤー。小学2年の時に交通事故で両脚の大腿部を切断。小学3年からチェアスキーを始め、徐々に頭角を現す。中学3年時にアルペンスキーの世界選手権に初出場し、高校3年時にトリノパラリンピックに出場。冬季パラリンピックのアルペンスキー(座位)に3大会連続出場を果たし、バンクーバーパラリンピック大回転で銅メダル、ソチパラリンピック回転で金メダル、滑降で銅メダルを獲得。2014年、春の叙勲で紫綬褒章受章、福島県民栄誉賞受賞。2015年8月よりKYB株式会社所属。

(text: 岸 由利子 | Yuriko Kishi)

(photo: 増元幸司)

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ロンドンパラリンピックの仕掛け人に聞く『東京2020成功のカギ』 ジャスパル・ダーニ氏 来日インタビュー 前編

岸 由利子 | Yuriko Kishi

オリパラの開催都市として、世界の注目が東京に集まる2020年夏。「パラリンピックの成功なくして、東京2020の成功はない」――小池百合子都知事がそう語るように、スポーツの祭典としての成功以上にまぎれもなく問われるのは、真の意味で社会に変革をもたらす力があるとされるパラリンピックの成功だろう。史上最も成功したパラリンピックといえば、観戦チケット約278万枚を完売し、各競技場の客席が連日満員の観客で沸いた2012年のロンドン大会が記憶に新しい。その成功は、交通手段などのインフラ整備をはじめ、インクルーシブ教育の普及、パラスポーツの振興など、さまざまなレガシーを実現し、その後の社会のあり方を大きく変えた。東京2020開催まであと540日、大会のキモとなるパラリンピックを成功に導くための準備は万端といえるか。残された時間でできることがあるとすれば、それは何――。ロンドンパラリンピックの仕掛人、ジャスパル・ダーニ氏(Jaspal Dhani)の来日に際して話を伺った。

ロンドンパラリンピックが、
ロンドンにもたらした“レガシー”

ジャスパル・ダーニ氏は、7歳の時にインド・パンジャーブ州からロンドンへ家族とともに移住。1980年代初頭より車いすバスケットボールのプレイヤーとして活躍し、2005年には、私営の車いすバスケットボールチーム「ロンドン・タイタンズ」を共同創設。以来、今日に至ってコーチ兼経営者として、イギリス国内トップの強豪チームに育て上げてきた。また24歳の時から一貫してインクルーシブ社会の一助となるべくさまざまな社会活動に尽力するかたわら、Every Parent and ChildのCEO、Sporting Inclusionの創設者として、チャリティ活動にも熱心に取り組んでいる。障がいのある人もない人も互いに尊重し、支え合う共生社会を実現する契機としてロンドンパラリンピックを活用し、GLL(Greenwich Leisure Limited)をはじめとする英国大手企業や、英国公共テレビ局・Channel 4などのメディアと強固な連携体制を築くことによって、その成功に大きく貢献した重要人物である。

ロンドンパラリンピックから6年が経った今、イギリスはどのように変わったのだろうか。ダーニ氏は、公共交通機関の発展についてこう語ってくれた。

「例えば、“ブラック・キャブ”で知られるロンドンの街中を走るタクシーには、車いす用のスロープが標準装備されたことによって、車いすから降りることなく、そのままタクシーを乗り降りできるようになりました。これは新しいスタンダードですね。ロンドン市内では車いす用のスロープが装備されたバスや低床バスも導入され、以前に比べてはるかに優れたアクセシビリティが確保されています。これらの変化は、公共交通手段を誰にとっても“アクセスしやすいもの”にすることに全力を傾けてきたイギリス政府の努力の賜物だと思います。しかし、もとを辿れば、ロンドンパラリンピックの開催に際して、パラアスリートを筆頭にさまざまなキャンペーンを行ってきたからこその変化であり、政府にとっては、すべての人に“質”を提供するための義務だったとも言えます」

引用元:https://www.dezeen.com/

1863年に開通した「London Underground」(ロンドン地下鉄)は、そのトンネルの形状から“チューブ”の愛称で親しまれる世界最古の地下鉄。筆者は大学時代をこの街で過ごしたが、チューブの深度は異様に深く、どの駅にも例外なく急勾配の長いエスカレーターがあり、地上からホームに、ホームから地上にたどり着くまで、いつも小旅行をしているような気分だった。例えるなら、大江戸線で言うところの六本木駅のイメージに近い。加えて、どの駅にもエレベーターはなく、バリアフリー化とはほど遠い状況だった。それから10年ほどが経ち、ロンドンパラリンピックの開催決定を機に、競技会場に近い駅などにはエレベーターが導入され、一部ホームのかさ上げを行うなど都市整備が行われるようになり、車いすで利用できる駅がかなり増えたのだと、ダーニ氏は教えてくれた。

イギリスでは、エレベーターのことを「リフト」と呼ぶ。
引用元:https://www.constructionnews.co.uk/

「会期中、何百万人という人々がロンドンを訪れるのに、地下鉄にアクセシビリティがなければ、それはもはや悪夢です。政府は可能なかぎりのアクセシビリティの実現に向けて尽力するとともに、会期中は地下鉄の各駅にボランティアが常駐する体制を取りました。すなわち、より快適に移動するための助けが必要な人がいれば、助けることができる人がすぐそこにいるという状況を確保したのです」

つまり、オリパラ開催に向けてロンドンが注力したのは、既存施設をいかに最大限に有効活用し、大会に間に合うように加速度的に進めるかということであり、ハード整備で補えないところは、ソフト施策で対応したということになる。

「一歩進んではまた戻りながらも、地下鉄の駅を含める街のアクセシビリティは、今も確実に進化を続けています。これはロンドン大会のレガシーのひとつとして挙げられるのではないかと思います」

パラスポーツの熱狂が社会を変えた

「住居のアクセシビリティも発展し続けています。近年では、新しい家を建てる時にインクルーシブデザインを取り入れるケースが増えました。根底にあるのは、生まれたのと同じ家で、残りの人生を過ごせるというアイデア。私たちはこれを“ライフ・ロング・ホーム”と呼んでいます。言い換えれば、全体としてインクルーシブにデザインされているので、少しの改良を加えるだけで長く暮らせるということです。ロンドンパラリンピックの開催後は、インクルーシブ教育がより推進されるようになり、障がいのある子どもたちが普通学級で学べる環境整備も格段に進んでいます。また職業訓練を受けられる機会も増え、より多くの障がい者が職を得て働くケースも増えています」

このようにロンドンパラリンピックの成功は、数多くの良き変化をロンドンにもたらしたが、なかでも劇的に変わったのは、「何よりもパラスポーツの振興である」とダーニ氏は熱く語る。

「ロンドンパラリンピックは、パラスポーツそのものを飛躍的に促進させたと思います。Channel 4はアスリートたちを“スーパーヒューマン”と位置づけ、パラリンピックをメジャー大会として大々的に放送し、ラジオ局はアスリートのインタビューを取り上げ、世界各国の新聞各紙が連日パラリンピックについて大きく報道しました。全体として、パラスポーツがいまだかつてない形で世界に露出されたことは、市民や社会、大企業のマインドセットを変える大きなきっかけとなりました。決勝戦を見ようと、メイン競技場のロンドンスタジアムには6万人の観客が押し寄せ、車いすバスケットボールと車いすラグビーの試合が開催されたバスケットボール・アリーナには2万人の人々が詰めかけるなど、想像をはるかに絶する人気を獲得しました。これだけの成功を収めるとは、誰も予想していなかったと思います」

パラリンピックの商業的価値から生まれる
「ソーシャル・エンゲージメント」

元パラリンピアンで現英国上院議員であり、2012ロンドンでパラリンピック統合ディレクターを務めたクリス・ホームズ卿によると、同大会は、オリンピックの協賛企業すべてが、パラリンピックにも協賛した初めての大会だった。「パラリンピックに商業的価値を見いだした企業には、パラスポーツの一部になりたい、携わりたいという嘘偽りない願望があった」とダーニ氏は振り返る。

「それらの企業の人々は、パラアスリートを含む関係者たちに熱心にこう投げかけていました。あなたたちのスポーツやチームをさらに発展させるために、私たちに何ができますか?と。企業にとってパラスポーツやパラスリートと関わることは、今までになかった新しいビジネス創出の機会です。対して、アスリート側、スポーツ側は投資を受けることによって、その認知度を上げるとともに、アスリートたちは、より多くのトレーニングを積み、各種大会への出場に向けて励むことができます。そのもようが、テレビや新聞、雑誌などのメディアで報道されれば、さらなる相乗効果が生まれてきます。こうしたソーシャル・エンゲージメントは、スポーツを発展させ、ビジネスを助長していくうえで、双方にとって得るものが大きい、極めて魅力的な関係なのです」

その先陣を切ったのは、イギリスの大手スーパーマーケットチェーン、セインズベリー。10億円ともいわれる巨額を投じて、パラリンピックのオフィシャルスポンサーにいち早く就任し、大会開催の約3年前から、各店舗にパラアスリートを招いてイベントを開催するなど、彼らの存在を鮮烈に広めていった。国民的ヒーロー、元イングランド代表のデビッド・ベッカム選手がブラインドサッカーを体験する様子をメディアで放映し、100万人の子どもたちにパラスポーツを経験してもらうキャンペーンを実施するなど、セインズベリーの全面的なプロモーション活動が、その他の企業に火を点けたのである。

後編へつづく

(text: 岸 由利子 | Yuriko Kishi)

(photo: 増元幸司)

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