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若干13歳。車いすテニスジュニア王者が、いよいよシニアにやってくる!【HEROS】

朝倉 奈緒

若干13歳の車いすテニスプレーヤー、坂口竜太郎さん。昨年国内大会ジュニアの部にて見事1位を獲得し、日本ジュニアランキングのトップに立ちました。東京パラリンピックやその先、またその先にも活躍が期待される坂口選手を支えるのは、お父様の剛さんや家族の存在。剛さんが自ら設立した車いすテニスクラブで練習中の坂口選手に会いにいき、子供から大人へと心身共に成長過程であり、今年はジュニアからシニアへの大会に挑戦するという複雑な心境を探ってみました。

自宅近所のテニスコートで、兄弟共にテニスざんまいの生活

千葉県浦安市にある高州南テニスコート。周りはきれいに整備された公園や自然に囲まれ、隣接している東京湾から潮風も吹いてくるのびのびとした場所です。毎週土日、午前中からこのテニスコートで練習しているという坂口選手。今年はシニアの世界にも挑戦するので、「大人のスピードやパワーに慣れるように準備している。」とのこと。

父・剛さんが8年前、自ら自宅の近所に車いす専門の「浦安車いすテニスクラブ」を設立したことで、本格的に車いすテニスの練習ができるようになりました。当時5歳だった竜太郎さん。「難しいことはよくわからなかったけど、テニスがいっぱいできるようになってうれしかった」と喜びを言葉にしており、今では3つ年下の弟・颯之介くんも一緒に毎日のようにテニスをしています。竜太郎さんのスケジュールは過密で、平日の放課後はテニスと塾、土日もテニスの練習で全て埋まってるのだそう。最近の小・中学生は習い事で遊ぶ暇がないと聞きますが、竜太郎さんも例外ではないようです。たまの休みは、「友達と映画を観に行ったり、(近所の)ヨーカドーに行ったりします。」と竜太郎さん。「ヨーカドーで何するの?」という質問に、「別に何も。ポテト食べたりとか。」と、いかにも中学生らしい返答で、思わず笑ってしまいました。

受け継がれていく、やる気のバトン

憧れの存在である国枝選手への思いについて聞いてみました。「『試合で負けているときに、自分の身に何が起こっているかをしっかりと考えて、例えば立ち位置を変えたり、戦術的に自分で考えて動いたり、もっと前に出て戦ったり、最後まで諦めずに取れなそうなボールも頑張って走って取る。僕はそういうふうにしてるよ』って国枝さんが言ってくれて。その言葉は、とても自分のためになりました。」国枝選手は時々ジュニアの大会を訪れて、このように直接アドバイスをしてくれるそうです。

「勝てるときは打点が良かったり、試合前の準備がきちんとできている。負けてしまう試合は、自分から崩れてしまったとき。負け始めると気持ちが崩れてきて、最後までボールを追えなくなってしまう。」国枝選手の言うように、テニスは体力やテクニックはもちろんのことですが、何よりメンタルの強さが大事です。そのことも、竜太郎さんはしっかりと自身の経験から学んでいます。

「いつかパラリンピックに出て国枝さんや、色々と教えてくれる三木選手のように、プロで活躍できる選手になりたい。プレイの面だけでなく、そのときは自分もまたジュニアのプレイヤーに色々アドバイスしてあげたい」と語る竜太郎さんの言葉から、先輩選手のバトンは、着実に次世代に託されていることが伺えました。

車いすの子供を持つ親同士の交流でママたちも笑顔に

テニスコートで子供たちを見守る、お母様の明子さんから、こんなお話を聞きました。

坂口さん一家は、以前は厚木市に住んでいたそうです。ところが竜太郎さんが小学校に進学するとき、市内の小学校から「前例がない」と、登校や下校、トイレに行くのにも両親が付き添うことが求められたそうです。「車いすに乗っていること以外は健常児と変わりないのに」と、ご両親は市外でもっと柔軟に障がい児を受け入れてくれる小学校を探すことにしました。たまたま見つけた浦安市の小学校に見学に行ったところ、「ぜひいらっしゃい!」と校長先生が快く迎えてくれ、それからその周辺で家を探して、という順序で引越しに踏み切ったそうです。浦安市の小学校では初日から竜太郎さんひとりで登校することが認められ、自立心を育てられたといいます。

「車いすのママは孤立してしまうのよね。本当は自分から積極的に輪に入るくらいの気持ちでないと、健常者の子のママたちからは話かけづらいでしょ。私はどんどん自分から話しかけられる性格だったし、障がい者である竜太郎、健常者である颯之介のふたりの母親だから、両方の親の気持ちがわかるからよかったのかもしれない」と話す明子さんは、障がい者と健常者のママたちの架け橋の存在になっていたようです。

剛さんが代表理事を務める一般社団法人 日本車いすスポーツ協会のジュニアキャンプでは、小さな子供たちも参加し、車いすの子供、親同士の交流を深めていたといいます。「車いすの子供を持つ親同士が交流することで、ママたちがよく話すようになった。そうやってママたちが明るくなると、自然と健常者のママたちとも気軽に話せるようになるのよね。」とニコニコと話す明子さん。

坂口一家が起こした、ジュニア車いすテニスのムーブメントの輪はどんどん広がっています。明子さんがお話されていたように、車いすの子供を持つ親が明るくなり、健常者の親と自然と会話できたり、共に遊べるようになることが、このムーブメントの最終地点なのではないでしょうか。

(text: 朝倉 奈緒)

(photo: 壬生マリコ)

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パラアスリートの感覚を体験できる卓球台「PARA PINGPONG TABLE」に、あの芸人が挑戦!

川瀬拓郎

本メディアでは、今年3月に「パラ卓球を盛り上げて、世界へ!立石兄弟が挑む東京2020への道」と題した記事でパラ卓球を取り上げた。その際、紹介した PARA PINGPONG TABLE が、CHIMERA GAMES の HERO X ZONE に登場。松岡修造氏のモノマネでおなじみ、そしてパラ卓球アンバサダーとしても活動中の芸人こにわ氏と、この斬新な卓球台をプロデュースし、パラ卓球協会の広報を担当する立石 イオタ 良二氏に話を伺った。なお、立石兄弟については前述の記事をご参照いただきたい。

初のパラリンピック、
初の金メダルも1964年の東京だった!

―パラ卓球が始まったのはいつ頃なのでしょうか?

イオタ「戦争で負傷した兵士のリハビリの一環として、卓球は古くから障がい者の間で親しまれてきました。はっきりといつから始まったと明言することはできませんが、現在のパラ卓球の形になったのは、1964年の東京パラリンピックでした。障がい者スポーツの国際大会が、パラリンピックという名称で呼ばれるようになったのも、まさにこの時だったのです」

こにわ「パラリンピックで日本初のメダルは、当時の卓球がもたらしたものだったんですよね。そしていよいよ来年は東京2020ですから、これは運命的なものを感じますし、すごい巡り合わせですよね」

―こにわさんがパラ卓球のアンバサダーになった経緯とは?

こにわ「僕は元々、バスケットボールをやっていて、田臥勇太選手と同世代で、漫画の『スラムダンク』にも影響されました。約10年前から松岡さんのモノマネをして、テレビに出るようになったのですね。だから、松岡さんが出演しているテレビ番組を全部観るようにしていたのです。そうなると、テニスはもちろん、世界水泳、全英オープンゴルフ、オリンピックのキャスターもやっていたので、ほとんどのスポーツ種目を観ていたんですね。そうして、ほとんどの種目を網羅できるくらいスポーツに詳しくなっていったんです。当然、その中には卓球も含まれていて、伊藤美誠選手とも連絡を取り合うようになりました。そうこうしているうちに、共通の知り合いに “そんなにスポーツに詳しいなら、パラ卓球をやっているイオタ君に一度会ってみないか?” と言われて、お会いしたことがきっかけです」

イオタ「人もいない、お金もない、(競技に必要な)物もない。そうした状況で、こにわさんと出会ったのです。そのときは、具体的に何をしようということまで決められなかったのですが、その後、こにわさんがイベントで募金活動を始めてくれたんです」

こにわ「“みんなの一円がメダルへの一球に” というキャッチフレーズで、表彰台型の募金箱を後輩に作ってもらって、募金活動を行いました。当時、『灼熱の卓球娘』というアニメの仕事をしていたタイミングもあって、配給元のエイベックスさんにも協力していただきました。金額はそれほどではなかったのですが、イオタさんを通じて畠山さん(パラ卓球協会会長)に直接お渡しすることができたのです」

ポジティブアプローチで生まれた
全く新しい卓球台

―こちらの PARA PINGPONG TABLE ですが、卓球台の左右の長さが違いますね。

イオタ「この卓球台が画期的なのは、パラ卓球選手がいなくても、彼らと同じ感覚を体験することができ、彼らの視覚を可視化した形状になっていることです。どうしてもパラスポーツへの関心は、家族や友達に障がい者がいるなど “関わる理由がある人” に限られてしまう。メディアの方がこうして取材に来て、パラ卓球を体験しても、それは “車いすに乗るという非現実” でしかありません。この卓球台で目指したのは、ネガティブなアプローチではなくポジティブなアプローチでした。重りをつけたり、動きを制限したり、ネガティブな要素で障がいを意識させるのではなく、健常者も自然に入り込んでプレーを楽しんでもらえるのです」

こにわ「実際にやってみるのが一番早いですね。実際にこうして(長い方の)卓球台を前にして立ってみると、ネットが遠く感じます。ネット際にボールを落とされたら、身体を伸ばしても、全然届かない!(笑)」

驚異的なプレーを見せた
エジプトのパラ卓球選手

イオタ「これだけ幅広い障がいをフォローできる競技は他にありません。例えば、片腕を欠損している方は、車いす競技はできませんよね。でも、卓球なら立位でも細かくクラス分けされているので、どんな障がいがある人でもプレーできる競技なのです」

こにわ「前回のパラリンピックで衝撃を受けたのは、エジプトのイブラヒーム・ハマドトゥ選手でしたね。彼は両腕がないのですが、ラケットを口に咥えてプレーするのです。サーブするときは、シューズを履いていない右足でトスをするのです」

イオタ「パワーとスピードはもちろん、卓球で大切なのはボールを回転させる技術が欠かせません。普通は手首でひねりを加えて回転させるのですが、この選手の場合は首のひねりで回転をかけるのです。普通の人がやったらムチ打ちになってしまいそうですが、常識では考えられないようなプレーをしているのです。その姿を見たとき、自然に涙が溢れてきてしまった。決して憐れんだ訳でもありません」

―イオタさんはプロの道を諦め、パラアスリートの兄をサポートしながら、日本代表のコーチとしてリオに飛んだわけですね。


イオタ「プロを諦めて家業を継ぐことを決めたときは、ショックのあまり2ヶ月くらい部屋に引きこもっていました。友だちの選手が活躍している姿を見ることすら苦痛でした。そうして悶々とした日々を送っていたのですが、やはりその時も自分を支えてくれたのは卓球でした。その後、兄のコーチをしながら、仕事で稼いだお金で、兄の海外遠征をバックアップしてきたのです。他の兄弟の学費も捻出しなければならず、貯金はいつもゼロでした。ある時、ITビジネスで成功して、億単位で稼いでいる友だちの高級車の助手席に乗せてもらったときは、本当に劣等感を感じましたし、惨めな気分になりました。でも、イブラヒーム選手のプレーを見て、もうそんなことはどうでも良くなったんです。劣等感なんかどこかへ吹き飛んでしまった。五体満足な身体がある自分なら、何だってできるはずだと。それからというものの、兄と一緒にこうして卓球と関わることができるのは、最高のことだと思えるようになったんですね。広報としての活動を通じて、この体験を多くの人に知ってもらいたい。多くのクリエイターに賛同してもらい、協力して実現した PARA PINGPONG TABLE は、そうした想いから生まれたものでもあるのです」

こにわ「僕がスポーツに詳しくなったきっかけは松岡さんの影響もありますが、小さい頃に親父と一緒に野球のテレビ中継を観ていたことが大きいかも知れません。というのも、当時の人気だった江川さんと掛布さんの解説を聞いていると、ピッチャーの配球術が次第に理解できるようになってきたからです。そこには、駆け引きがあり戦略がある。これはどんなスポーツでも一緒なのですが、フィジカルと技術に加えて、戦略がなければ勝てない。これはパラ卓球でも同じもことが言えるのです。例えば、車いすの茶田選手の場合、ラケットが届かないネット際に打たせないためのサーブを打ち、ラリーをしなくてはいけない。相手が返してくるコースを先読みしてプレーを組み立てるのです。この PARA PINGPONG TABLE を体験してみれば、茶田選手の驚くべき戦略が理解できる。だからこそ、この卓球台が特別なのです」

東京2020の全選手が
スーパースターになれると信じて

イオタ「どんなスポーツでも解説ができるくらい詳しいこにわさんに、そう言っていただけるのは本当にありがたいですね。パラ卓球の代表選手になるためには、日本大会はもちろん海外大会で勝利してポイントを貯めなければなりません。その渡航費も滞在費も全て自費です。だからスポンサーを見つけないといけないし、国からサポートを受けている海外選手に比べたら、かなりハードルが高いことは事実です。じゃあどうするのか?と、想像力を働かせながら色んなコミュニケーションを取ることが僕の仕事ですし、そのひとつの成果が PARA PINGPONG TABLE なのです」

こにわ「パラスポーツはもちろんですが、僕は日本のアスリートを全員スーパースターにするという気持ちを持って応援しています。NBA のレブロン・ジェームスや NFL のペイトン・マニングのようなスーパースターに、日本人は到底敵わない、スーパースターになんかなれないと諦めてしまったら、もうその先がない。でも、当の選手たちは超ポジティブなんですよ。だから応援する僕らが、その気にならなければ絶対に無理。日本のアスリートにはその可能性があるし、あらゆる想像力を駆使して全力でパラ卓球を盛り上げていきます」

HERO X ZONE を訪れた来場者の多くが、PARA PINGPONG TABLE を体験。最初はただの卓球台だと思ってプレーを始めたら、何かが違う…。「障がい者の方にとって卓球台が、こんなに広く感じられるとは驚きました」とコメント。

立石イオタ良二(たていし・いおた・りょうじ)
1985年、福岡県生まれ。創業大正10年となる博多・立石ガクブチ店の四代目。一般社団法人日本肢体不自由者卓球協会 渉外広報担当。大学時代、全日本学生選手権大会団体銅メダル、ダブルス7位。全日本卓球選手権7位。現在は、コーチとして兄を支える。

こにわ
1982年、東京都生まれ。サンミュージック所属のお笑い芸人。松岡修造、石橋貴明、中山雅史、松木安太郎など、多くのモノマネのレパートリーをもち、数多くのテレビ番組に出演。スポーツ全般に精通し、2017年からパラ卓球のアンバサダーを務めている。

(text: 川瀬拓郎)

(photo: 増元幸司)

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