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世界王者復活なるか!57歳で挑む パラ陸上伊藤智也が起こす旋風

宮本さおり

「最高のマシンが仕上がった。マシンに負けない走りを見せたい」まもなく開幕を迎える東京2020パラリンピック大会。車いす陸上T52に出場する伊藤智也選手(バイエル薬品)は新しいマシンを横にそう意気込む。ロンドンパラを最後に引退宣言をしていた伊藤選手が再びパラの舞台へ。目指すのはもちろん金メダルを首にかけることだ。すでに57歳を迎えた伊藤選手だが、メダル争いをするのは年齢もはるかに下の選手たちだ。「1年延びたおかげでベストな状況が作れた」“おっちゃん”の勝負が始まろうとしている。

誰なんだこの人は?からはじまった復帰への道

これまで、パラリンピックに3回の出場経験のある伊藤選手は、2008年の北京パラではT52クラス400mと800mで世界記録を樹立して金メダルを獲得。その後のロンドンパラでは惜しくも銀となり、このレースを最後に現役を引退した。眠っていた闘志を奮い起こさせたのが今回のパラリンピックで競技用車いすの開発を手掛けることになった株式会社RDS代表・杉原行里との出会いだった。

「伊藤選手ですよね。僕が最高のマシンを作るので、もう一度パラリンピックで走りませんか?」

海外で行われたロボット技術を競う大会に操縦士として出場していた伊藤選手に杉原が突然声をかけてきたという。全く知らない若者のこの言葉が現実のものとなるとは、この時の伊藤選手は考えてもいなかった。

「誰なんだこの人は? というのが第一印象でしたね(笑)」(伊藤選手)

しかし、話を聞くうちに、“これは面白い”と思い始めた。

「僕も工業系のエンジニア出身なので、杉原さんの考えるマシンの理論はだいたいわかりました。テストドライバーにということで、再び挑戦することを決めました」

引退から5年、伊藤選手は再びパラを目指すことを決めた。

計測がもたらした走りの進化

人間の体とレーサー(競技用車いす)が一体となってレースを走る車いす陸上は、どことなく、車のレースとも似ている。人間の体を作りこむだけでなく、マシンの性能もレースを左右するからだ。BMWやHONDAが陸上競技用車いすの開発を手掛けているのはそういう繋がりもあるのだろう。これまで、既製品のレーサーを使って競技に参加してきた伊藤選手だが、今回のパラに向けてRDSが提案したのは最先端の計測技術を用いて作るオーダーメイドの車いすだった。

計測のため、RDSのファクトリーを訪れた伊藤選手。鋭いまなざしでスタッフ陣と話し合いを進めていた。

モーションキャプチャなどを使い、徹底的に計測すると、これまでの伊藤選手のレーサーでは、彼の持ち味をすべて出し切れていないことが分かってきた。東京パラの選考まで残り2年でどこまで高性能なマシンが作れるか、はじき出されたデータを元に、車輪の角度や座面など、伊藤選手の体にピタリとフィットし、出した力を十分にスピードに結びつけることができるレーサーの開発がはじまった。

開発の中でも要となるのがシートポジションの設定だ。車いす陸上は腕を使って車いすの車輪を回して走るレース。座面と車輪の位置次第で漕ぎやすさが変わる。しかし、車いす製造の現場には、最適なシートポジションを導き出すための計測機はない。エンジニアや現場の医療従事者の経験がものをいう世界だが、それを可視化することは難しく、トライ&エラーがしにくい環境で、制作されている。
レーサーだけでなく、普通の車いすについても同じだ。レンタル品を使う場合は既製品ありきで考えられるし、購入する場合も車いすは高額のため、多少フィット感が薄くても、何度も買い替えることができないため、ある程度の我慢が必要という状況だった。

しかし、伊藤選手の最適なポジションを探るには、何度も試す必要がある。そこで考案されたのがシーティングデータを計測するシミュレーター『RDS SS01』だ。このシミュレーターの完成は伊藤選手のマシン開発に役立てられただけに終わらず、リハビリ界にも大きな影響を与えはじめている。

例えば、頸髄損傷のユーザーにマッチした車いすを調整する場合、本人と技術者の感覚を頼りに何度も微調整を繰り返し、理想的な状態に近づけていた。だが、それは時間も手間もかかる。また、人の感覚に頼るところが大きいため、本当にそれがユーザーにとっての最適なシートポジションなのかはわかりにくい部分もあった。だが、『RDS SS01』を使えば、最適なポジショニングかの判断を数値という形で可視化し、客観的に見ることができる。

実際、『RDS SS01』で計測してみると、伊藤選手の場合、最適なポジショニングで走行すれば、かなりのタイムが出ることが見えてきた。「これなら勝てる!」チーム伊藤の結成から1年以上が経ち、ようやく金メダルへの道が見えはじめた。車体はRDSが得意とするカーボン加工技術で仕上げることで、軽さと剛性の両立を果たした。実はこの技術、F1の「スクーデリア・アルファタウリ」のオフィシャルパートナーであり、モータースポーツを支えてきた同社が長年培ってきた技術を転用、今回のレーサー開発に生かしたのだ。また、今回の伊藤モデルでは「スクーデリア・アルファタウリ」とのコラボレーションも実現、カラーリングもF1チームのカラーと合わせることになった。

「速そうでしょ!」と話しレーサーに乗る伊藤選手。「スクーデリア・アルファタウリ」とのコラボカラーのレーサーが人目を惹く。

「ちょっと止めておくと“これ誰のだ?”と、人だかりができるんです。見るからに速そうでカッコいいですからね。こないだなんて、人だかりが消えるまで1時間くらい待ちました。こんな最高のマシンを作ってもらったので、マシンに負けない走りにしますよ」(伊藤選手)

だが、世界のトップを決めるのがパラリンピックの舞台だ。伊藤選手の最大のライバルは同じ日本から出場する佐藤友祈選手(モリサワ)だろう。佐藤選手は伊藤選手も出場していたロンドン2012パラリンピックを見て車いす陸上をはじめた選手。伊藤選手が引退後のリオ2016パラリンピックのT52クラス400mと1500mで銀メダルを獲得、2018年の国内大会ではこの二種目で世界新記録を達成し、2019年の国際大会でも800mと5000mで世界記録を更新した実力の持ち主だ。

今回のパラリンピックで金が期待される佐藤選手は31歳、金奪還を狙う伊藤選手は57歳。50代後半と言えば、一般の社会でも、退職を意識し始める年齢だが、伊藤選手にその意識はない。57歳の“おっちゃん”が30代とどう戦うのか。おっちゃんの身体をマシンの力でどこまで拡張できるのか、もちろん、日本勢のワンツーフィニッシュにも期待がかかる。

最終調整に入った伊藤選手はここへきて好タイムを出している。先日のテスト走行でも好調をアピール。大会直前のこの時期において、マシンと身体が十分に仕上がってきたと実感する。

テスト走行で好タイムをはじき出す伊藤選手。

ここへきて体の使い方と漕ぎ方の抜本的な見直しも行った。友人である武道家から体の使い方についてレクチャーを受け、すぐさま自身の体で試してみた。この友人が伝えたのは健常者に話す内容だったが、伊藤選手はこれを独自に解釈、自身の走りに取り入れると、1500mを漕いでも以前ほど息が上がらなくなったと話す。体の調整と共にレーサー本体の調整も完了、車輪の角度を少し変えると、風が強い日のテスト走行にも関わらず、好タイムが出たのだ。「この1年で最高の状態に仕上げることができました。もしかすると、1500mもいけるかもしれません」伊藤選手の目は勢いづく。

最高のゴールを見せる準備はできた

伊藤選手のレースが見られるのは車いす陸上T52クラス100mと400m、1500mの三種目。競技場の外を走る車いすマラソンに比べ、彼が出場するトラック競技は競技場の地面の質によってもタイムが変わると言われるが、伊藤選手はトラックの質によらずにタイムが出るように体を仕上げてきたと言う。

決まったレーンを走り続けることがルールの400mと違い、1500mでは選手間の心理戦も繰り広げられる。序盤から先行すると、一身に空気抵抗をうけて他選手の風よけに利用されてしまう。あえて中間グループあたりを陣取り、他選手を先行させ、どのタイミングで勝負に出るかを見計らう。選手同士の駆け引きも見所だ。生身の体で走るのとは異なり、レーサーを操るレースのため、一歩間違えば大事故につながる。実際、伊藤選手も初出場のアテネ2004パラリンピックでは、スタートダッシュで力みすぎ、コーナーで遠心力に負けて転倒、2か所の骨折を負ったことがある。各選手がどのようなレース展開を見せてくれるか、ここも車いす陸上の見どころだ。

「あとは自分がどれだけいいエンジンになれるかですわ。今回仕上がった新しいレーサーで走ったら、トップスピードが時速で1㎞上がった。最高の形で最後のバトンを受け取り、最高のゴールを見せる準備はできました。“伊藤のおっちゃんを走らせてよかった”と思ってもらえる走りを見せますよ」チームと中年の夢を乗せ、ゴールに向けての戦いが始まろうとしている。

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(text: 宮本さおり)

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東京2020。100m全米王者から届いた「世界最速」への果たし状 ジャリッド・ウォレス 後編

岸 由利子 | Yuriko Kishi

2015年、2016年の全米選手権を制覇し、リオパラリンピック陸上男子100mT44(下肢切断)5位入賞を果たしたスプリンター、ジャリッド・ウォレス選手。2017年5月、日本の競技用義足開発メーカーXiborg(サイボーグ)社と共同開発契約を結び、7月にロンドンで開催された世界パラ陸上競技選手権大会2017では、Xiborg製の義足で出場し、200mで優勝。多くのトップアスリートが、競技用義足の圧倒的なシェアを誇る欧州企業の義足を使用するなか、日本製の義足を選んだ全米王者のウォレス選手は、極めて異例だ。同社をパートナーとして選んだ理由とは?世界一のスプリンターになるために行っていることとは?開会まで956日に迫る東京パラリンピックでの金メダル獲得を目指すウォレス選手に話を伺った。

トップアスリートが独学で義足の調整を学ぶ!?
「師匠はテクノロジー、僕は弟子」

競技用義足を間近に見たことがあるだろうか?地面を蹴る炭素繊維強化プラスチック製の「板バネ」、足の断端部(切断部)に装着する「ソケット」の2つのパーツで主に構成されている。また、板バネとソケットを接続するための「アダプター」、ウォレス選手の場合、ソケットと断端部の間の空気を抜き、陰圧によって義足を懸垂するための「吸着バルブ」など、他にも細かなパーツを精緻に組み合わせることで、アスリートの体と一体化する不可欠な部位となる。

トップアスリートの場合、義肢や装具の製作を行う義肢装具士がそれらの調整を行うのが一般的だが、ここ1年半ほどの大会やトレーニングなどにおいて、ウォレス選手は、ほとんどの調整を自分で行ってきた。

「テクノロジーと僕は、師弟関係を結んだのです(笑)。細かな調整で生じる違いによって、走った時に自分がどう感じるか、何が変わるのかといったことを自分の体で理解するためでした。感覚主体ではあるけれど、小さな違いを生むための方法を独学で学んできました」

それは、ウォレス選手にとって、今後に活かせる貴重な経験となった。だが、金メダル獲得を狙う東京2020を踏まえると、やはりエキスパートの必要性を感じたという。

「2ヶ月ほど前に、アメリカで、僕のソケットを作ってくれている義肢装具士にお願いすることになりました。ソケットを開発する能力に長け、ブレードの知識も豊富で、この業界の仕組みを熟知している人です。走っている時に、義足がどんな風に感じるかについては分かるけれど、僕は義足のエキスパートではありません。彼は、僕の感覚と技術の架け橋となってサポートしてくれる大切な存在です」

今回の来日では、新たに改良を加えたXiborg製の板バネを手にした。「帰国する日が待ち遠しい」。ウォレス選手の顔に笑みがこぼれたのは、その新しい板バネと共に、義肢装具士との初めてのコラボレーションが実現するからだ。東京2020に彼と連れ立って来日できる体制を整えることは、今後の一つの目標でもある。

世界最速スプリンターになるための、
たゆまぬ努力

現在、パラリンピック陸上男子100mの世界記録が10秒61であるところ、ウォレス選手の自己ベストは、10秒71。「(アスリートたちの)走るスピードが速くなればなるほど、0.1秒、0.01秒の差が大きな違いを生むのは、スポーツの性質。僕が思うに、おそらく世界最速は10.4、10.3あたりではないでしょうか。東京2020までには、10秒台前半を目指していきたいです」。

トップアスリートたちは、過酷なまでに自分を追い込み、トレーニングに集中する日々を送っている。シーズン中は、そこにレースが加わり、頭の中では常に走ること、レースの結果やライバルのことでいっぱいの状態だ。さらに、全力疾走するごとに、筋肉の中では微小断裂(microtears)が起き、筋肉は壊されている。

「だからこそ、心と体を十分に休ませ、正しく癒やし、回復させる時間が不可欠です。シーズン中は、数週間オフを取りますし、それ以外でも、1週間に3日ほど休みます。この習慣を実行しているからこそ、毎日ハイレベルのトレーニングができています。20日間ぶっ続けのトレーニング?もちろんできますが、筋肉が十分に回復できていない状態では、ハイレベルのトレーニングができる能力はおのずと落ちていきます」

レースで最高の力を発揮するためには、「いい走りをし、素晴らしいパフォーマンス力を発揮している自分の姿を心に描くビジュアライゼーションが不可欠」だという。

「幸いにも、東京2020までの数年間、Xiborgチームと共に、競技用義足を共同開発できる機会に恵まれています。有効的なトレーニングを続けるためにも、金メダル獲得というゴールに向かって前進していくためにも、これほど有利なことはないと思っています」

義足は工芸、100m走は美しい絵画

「東京2020でのライバルは、誰?」と尋ねると、パラリンピック2大会で100mを制覇した英国のジョニー・ピーコック選手と、現在100mの世界記録保持者である米国のリチャード・ブラウン選手の名前が挙がった。

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ウォレス選手にとって、走ることは自分が何者であるかを示す人生の大部分を占めてきた。7年前に右足を失う前の高校時代には、州大会の800m、1600mで優勝するなど、健常者のアスリートとして活躍していた。

「今も昔も走ることが大好きです。走ることは、僕にかけがえのない喜びを与えてくれます。100m走は、多くのことが正しい方向に向かっている、それを示す美しい絵画であり、アートです。競技用義足というクラフトを学ぶことは、とても楽しい。もちろん、正しいと思っていたことがそうではない場合もあります。でも、より速く走るために何が必要かと考えれば、アイデアは無限に思いつくし、だからこそ、学ぶことをやめられない。そのユニークな挑戦が僕を掻き立て、走ることに向かわせるのです」

前編はこちら

ジャリッド・ウォレス(Jarryd Wallace)
1990年5月15日、米国・ジョージア州生まれ。高校時代に州大会の800m、1600mで優勝。20歳の時、コンパートメント症候群により右足を切断。その12週間後、義足をつけて走り始め、15ヶ月で国際大会優勝。Parapan American Games 2011で世界記録を打ち立て、2013年には世界パラ陸上選手権大会(200m・4×100mR)で優勝。2015年、2016年の全米選手権チャンピオン(100m)に輝く。リオパラリンピック男子(100m)5位入賞。2017年5月、日本の競技用義足開発メーカーXiborg(サイボーグ)社と共同開発契約を締結。同月21日に開催されたセイコー ゴールデングランプリ陸上2017川崎の出場時より、Xiborg製の義足を使用している。同大会のパラリンピック種目男子100メートルT44(下肢切断)で優勝。自己ベストは100mが10秒71、200メートルが22秒03。

(text: 岸 由利子 | Yuriko Kishi)

(photo: 増元幸司)

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