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本当に法律問題はモビリティ進歩の壁なのか?国内イノベーションの実態

吉田直子

移動サービスをシームレスにつなぐMaaSのようなシステムや、自動運転などのテクノロジーは、世界各国で研究・導入されている。日本でも実証実験はされているものの、まだ実用化は進んでいないのが現状だ。その原因のひとつに、道路交通法をはじめとする法規制があるとされている。知財関係の訴訟に詳しく、多くのスタートアップにも関わる溝田宗司弁護士に、国内モビリティの法律面での問題点を聞いてみた。

新興国に突破口!?
新たなビジネスプレイヤーの登場も

世界各国でイノベーションが起こっているMaaSや自動運転車、ライドシェア事業。しかし、日本はというと、既存のものの組み合わせで終始している場合が多い。日本の交通網は成熟しているがゆえ、それに伴う法規制も多くなる。そこで、法の範囲の中でタクシーに関するアプリ業務を委託するなど、一定の枠の中の開発になりやすい。また、モノ作りにおいても、日本は採用する部品ひとつとっても、許認可のルールが厳しい。日本ではモビリティに関するイノベーションは起きにくいのだろうか。

「日本には,白タクなどを規制する道路運送法というものがあって、タクシーのようなことをやろうとしても自由にできるわけではありません。例えば,MaaS事業者として有名なUberは,日本にも上陸していますが,海外と同じサービスを提供できているわけではありません。では,日本でMaaS事業者が出てこないのかというと、意外にそうではないと思います。例えば、日本のベンチャーでフィリピンでバスとタクシーの中間のようなモビリティの提供をはじめた会社があります。時間通りに走らせるのではなくて、すべての車両を等間隔で走らせ、5分待てばバスが来るというシステムです。当然,日本で同じことをやろうとしても、許認可が必要になってくるので、東南アジアでの事業化をめざしています」

もはや国内にこだわらず海外で始動するベンチャーは多いと語る溝田弁護士

つまり、グローバルな規模で見れば、日本のモビリティ企業も活躍しているということだ。溝田氏によると、やはりビジネスモデルそのもので勝負するタイプの企業は、海外に出ていくことが多いという。さらに、ビジネスモデルそのものが大きく変化しているのも特徴だ。

「以前はビジネスプレイヤー(メーカー)がいて、そこからユーザーはモノを買ったりサービスを受け取っていました。でも、今は、そのやりとりの『場』を提供するプラットフォーマーがどんどん出てきていて、ベンチャーにもその流れがきています。従来は,オープンイノベーションという形で,資金が豊富な大手が場を提供して、ベンチャーが技術を提供したり、モノを開発するというパターンがよくあったと思いますが、今はIoT関連などの分野では、ベンチャー企業がプラットフォーマとなる例も登場してきています。ビジネスとしても大きいので、様々な企業がプラットフォーマーになりたがっている時代です」

前述のベンチャーも、主体は新公共交通システムの提供だ。従来は国がおこなってきたプラットフォーマーの役割を、私企業が担うようになってきている。その競争は、世界では、もう始まっているという。

モビリティ改革には
法整備のためのロビー活動も必要

ただ、国内ではやはり法規制の問題がある。グローバルに戦略を展開するとしても、国内での発展をおざなりにはできないだろう。限定された地域でのモビリティの実証実験は数多く行われているが、果たして、それを一般の社会に適応できるのか。そこで吸い上げられたリスクや問題点が、法改正などに反映されなければ意味がない。

「実証実験の目的は課題を抽出すること。ところが、日本の実証実験はうまくいくことが前提になっている面がある。例えば、自動運転を日本の社会に取り込んでいこうとしたら、法整備は絶対しなくてはいけません。事故を起こした時に、誰が責任を取るのか。プレイヤーなのか、サービスを提供した会社なのか、許認可の問題なのか。刑事上の責任、民事上の責任、行政上の責任、3つが関わってきます。でも、本当に課題が明確になっていないと、法整備はできない。最初から100点を取るのは無理だとしても、100点を目指してやるべきで、そのために実験をやるんだという本来の役割・目的を忘れないようにしたほうがいいでしょう」

開発段階でいつも話題がテーブルに上る法整備の問題だが、現状では日本のモビリティの実証実験の現場に法律の専門家が入っているケースは少ない。今後どういう規制が必要なのか、どんな法律的な問題が想定されるのかが、わからないのではないかという危惧もある。

「本当は新しい産業が立ちあがってくる時には、ロビイングのような活動が必要なんです。既存の規制はこうだけれど、こういう社会になるのだったら、新たにこういう規制が必要になるから、国会に働きかけて作りましょう、と。これをロビイングというのですが、日本ではあまり行われていません。アメリカでは盛んにやるわけです。利権団体をまとめて国と交渉する、いわゆるロビイストが普通の仕事として認められている。日本でもそういう活動が必要になると思います」

必要性は感じつつも、実際の動きに結びつかない理由はどこにあるのだろうか。例えば、弁護士がロビー活動のキープレイヤーとして動くことはあり得ないのだろうか。

「モビリティの話に関わらず、弁護士とビジネスマンとの距離感の問題もあると思います。私がいうのも変ですが、日本で弁護士というと、“先生” という扱いで敷居が高いイメージです。でも、アメリカでは、“特殊な知識を持っていて、それがビジネスになっている人” という扱いですね。ですから、わりと軽くビジネスの相談もできるのではないでしょうか」

ただし、この現状も、変化しつつあるという。
「日本でもベンチャーに関連する弁護士もたくさん出てきて、そうするとシームレスなサービスを提供しないとスピード感についていけない。ですから、最近は国内の弁護士の中にもまるで同じ会社で働く同僚みたいに気軽にアドバイスをするタイプの弁護士が増えてきています」

法律を作りつつ
条例で地域格差をカバー

日本でモビリティ革命が進まないもう一つの背景には、都市と地方の格差があるといわれている。様々な交通網が張り巡らされた大都市圏では、新たな移動手段が必要とされない。一方で、地方では過疎化が進み、自動運転車やライドシェアなどのニーズが高まっている。必要なモビリティが、地域によって大きく違うのだ。これについて、溝田氏はこう語る。

「憲法上の要請により、法令と条例の関係というのが問題となります。この点、法令が全国的に一律に同一内容の規制を施す趣旨ではなく、その地方の実情に応じて、別段の規制を施すことを容認する趣旨であると解されるときは、条例による規制ができるとされています。MaaS関連については、ある程度は国の法律で決めた上で、各地方自治体の条例で差を出していくというのが現実的だと思いますね」

様々な問題点はありつつ、日本のモビリティにも可能性があることがわかってきた。ところで、モビリティに関わらず、イノベーションという面で、多くの知財特許などにかかわってきた溝田氏によれば、「ビジネスモデルの特許出願が増えている」という。いったいなぜなのか。

「特許は本来、モノ作りのためのものでした。特許というのは新規性、進歩性その他が条件になる。ビジネスモデルなんて発明じゃないとされてきたんですね。ところが、最近、ビジネスモデルの特許出願が増加し、特許になる確率も上がってきています。ビジネスモデルで勝負するという時代にはなってきていると思います」

MaaSなども、まさにビジネスモデル。ハードを提供するというよりは、シナジーやプラットフォームを提供する流れは、これからも加速していくだろう。モビリティの改革も、その流れの中にあることは間違いない。

 

溝田宗司 (みぞた・そうじ)
MASSパートナーズ法律事務所共同代表パートナー。2002年同志社大学工学部電子工学科卒業後、日立製作所にて特許業務等に従事。2003年弁理士試験合格(同年12月登録)し2005年からは特許コンサルタントとして活動。その後、2005年大阪大学高等司法研究科入学、2008年03月修了、2009年09月司法試験合格し、11月より司法研修所入所(新63期)、2010年に弁護士登録、2012- 首都大学東京MBA非常勤講師(知財)、2018年度、2019年度 関東経済産業局主催オープンイノベーション促進のための支援体制構築事業に参画、特許訴訟や特許戦略に強い弁護士として活躍している。

(text: 吉田直子)

(photo: 増元幸司)

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歴史から紐解けば見える!? これからの「車いす」のカタチ

長谷川茂雄

近年、次世代電動型車いす「WHILL(ウィル)」などが世界から注目を集めているが、それは、車いす=ハンディキャップを補完する乗り物という価値観が少しずつ変化してきた現れなのかもしれない。とりわけ超高齢化が進む日本では、パーソナルモビリティとしての役割を果たす、新たな車いすの登場を待ち望む声が高まっているように感じる。では、これからの時代にフィットする車いすとはどんなものなのか? その答えを探るべく、手動車いすの発展と意匠に関する研究でも知られる山内閑子氏(フランスベッド株式会社)に、お話を伺った。車いすの歴史を振り返りながら、これからの “車いす像” を追った。

車いすのデザインは
市場の独占で足踏み状態が続いた

近年街中でも見かける機会の多くなった車いす。事故や病気により自らの足を使っての移動が難しくなった人々の生活を支援するための福祉用具として用いられてきた車いすだが、昨今の高齢化の影響で加齢による衰えで歩行が難しくなった人々が利用するケースも増えている。車いすユーザー数を調べた以下の図を見ても、微増傾向が続いている。需要が増えれば開発が促進されるというのはモノづくりの前提だが、果たして車いすの進化は起きるのだろうか。

この問いに「今がその時」と話すのはフランスベット株式会社で車いす開発にも関わる山内閑子氏だ。車いすの長い歴史から紐解いてみると、19世紀後半まで専門業者が存在せず、大工や家具屋、馬車屋といった職人が必要に応じて作っていたことがわかる。それゆえ、かつては現在の車いすの役割を果たすものは、様々な姿形をしていた。日本で最も古い(今でいう車いすのように使われた)ものは、一遍上人絵伝(1299年)に描かれた「土車」だという。そしてヨーロッパでは、手押し一輪車が使われた。いわゆる運搬用具が転用されていたのだ。

「かつては、身近にあった道具を転用、代用していたわけですが、それは、専業の会社が成立して量産化されるまで続きます。大きな転機になったのは、アメリカの南北戦争。負傷兵のニーズが高まり、車いすの製造台数が増えたのです。それで1870年代には、産業化へと繋がる道筋ができていきました。その後、本格的に産業化されたのは、アメリカで1937年にE&J社が作った4輪ボックスタイプからです。それまでは、木製で重いものが主流でしたが、これは鉄パイプ製で、キャンバス地をパイプの間に渡し折り畳める画期的なものでした」

左が南北戦争時代の車いす。右が、1937年にE&J社が発売した4輪ボックスタイプの車いす。

炭鉱の落盤事故で脊髄損傷したエベレスト氏とその友人であったジェニングス氏が、自分たちの乗りたい車いすを作りたいと思い立ち、ガレージを作業場にして、全く新しい車いすを作ったのだった。そして自分たちの頭文字(E&J)の会社を興すと、車いすの歴史のなかで最も大きなターニングポイントとなる初代モデルを発表し、それを量産化した。軽量で携帯性にすぐれたその車いすは大きな成功を収め、1943年までにE&J社はトップメーカーの地位を確立した。ただ、その成功は、皮肉にも車いすの進化を停滞させることになる。

「彼らが作り上げた4輪ボックスタイプの車いすは、非常に完成度が高く、今も病院で見かけるものの原型のひとつです。E&J社は市場を独占し、一時は北米、イギリス、ドイツでのシェアが90%を超えました。しかし、ダンピング体制による技術発展の阻害が独占禁止法にふれ、1979年に約40年の独占状態が解除されました。様々なデザインがまた生まれ始めたのは、その後から。それに寄与したのが、スポーツ好きで、アクティブなライフスタイルを求めた人たちです」

山内氏いわく、「車いすユーザーが自分たちの好きなデザインを積極的に求められる機運が高まったのは、1980年代になってから」。

ステレオタイプな “車いす像” は、長きに渡る市場の独占と、それに終始して新たなデザインを追求しなかった保守的な哲学で生まれたのかもしれない。ただ、その独占状態が解除された1970年代後半〜1980年代には、“スポーツ” を軸に、軽くて動きやすく、しかもスタイリッシュな車いすが、アメリカを中心に続々と登場していった。まさにカウンターカルチャーである。

スポーツを軸に始まった
車いすのデザイン改革

「最もユニークで印象的なもののひとつが、ジェフ・ミネブレイカー氏が作った “クアドラ” です。彼は、ロサンゼルスの郊外でレクレーション療法士をしていたのですが、車いすでもアクロバットな動きやダンスができるようにしたい、という発想から、軽量化と操作性を追求した車いすを作りました。商品化されたのは1977年。これも非常に画期的で、その後1980年代に続々と生まれるスポーツタイプ車いすの礎となりました。

こういう自由な発想で車いすをデザインしよう、自分たちの乗りたいものを作ろうという動きは、それから活発化するわけですが、その根底には、1950〜1960年代に、アメリカで起こった公民権運動があります。自立した生活を自分たちで獲得していくという意識が大きく反映されているのだと思います」

ジェフ・ミネブレイカーが手掛けたイメージビデオ「Get It Together 1976 Wheelchair Sports」。70sらしい自由な空気感と、“クアドラ” を使ったアクロバティックな動きが興味深い。車いすのポジティブなイメージと新しいライフスタイルを、メッセージ的に発信した。

 

自分たちのライフスタイルは自分たちで獲得するという社会的な意識の高まりは、車いすの新たなデザインや発想にも直結している。1981年には、ハングライダーの事故で脊髄損傷をしたマリリン・ハミルトンが開発した “クイッキー” が発売されたが、こちらは、女性らしい丸みのあるフレームや華やかなカラーバリエーションが特徴的だった。

さらに1989年には、スウェーデンのヤッレ・ユングネルが開発し、発売した超軽量フレームの “パンテーラ” と続き、それまでボックス型で無味乾燥だった車いすのイメージは、少しずつ変化することになる。その流れは、1980年代末にようやく日本にも飛び火する。

「日本では、東芝のデザイナーだった川崎和男氏が、『スニーカーのような車いす』をコンセプトに作った “カーナ” が、ファッション性を高めた最初のプロダクトと言えます。事故で脊髄損傷し車いすに乗っている自分の姿をショウウィンドウで見た川崎氏が、ショックを受けたことをきっかけにデザインに乗り出したそうですが、モダンな意匠が世界的にも注目され、現在はMOMAのパーマネントコレクションに収蔵されています」

多くの車いす開発にも携わってきた山内氏。いま最先端で気になるプロダクトは、さいとう工房が手掛けるREL(レル)とのことhttp://www.saitokobo.com/product/
「ロボティクスを使ったこれまでにない動きを可能にしています」。

“カーナ” に続き、1990年代以降、日本でも自由なデザイン性、高い操作性を持つ車いすは次々と生まれることになる。現在では、あらゆる分野で日本製の車いすは注目を浴びるようになったが、デザインという視点で、山内氏がもっとも注目しているのが、横浜の会社ムーヴが手掛ける “ラリー” だ。

「プロダクトデザイナーの廣川弘道さんが、2005年に手掛けたものですが、プロダクトそのものだけではなく、“人が座った時に美しく見える” 人間の尊厳を乗せる車いすというコンセプトが、当時としては画期的でした。それまでは、車いすに対してそういう考え方に出会ったことがなかったので、かなり新鮮に感じたのを覚えています。女性が座った時、座り姿が綺麗に見える佇まいに魅せられましたね」

左は、川崎和男氏が自ら設計・デザインを手がけた “カーナ”。右が、プロダクトデザイナー、廣川弘道氏による “ラリー”。どちらも日本の車いすのデザインの流れを変えた。

これから、ようやく
車いすの本当の進化の時代が始まる

山内氏が、現フランスベッド株式会社に入社したのは、“ラリー” が発売された後の2008年。自らもシニア向けの車いす “nomoca” を開発した。その際は、介護保険レンタル対応ということもあり、車いすを単なる移動手段と捉えるのではなく、“居心地のいい空間”として感じられるものを目指したという。

「ユーザーが散歩に行って休んだ際に、ホッとできるようなスペースでありたいというのが、自分が “nomoca” で描いたコンセプトでした。ユーザーを包み込むようなイメージでフレームも丸みのあるデザインにしましたし、好きな色を選べるように4パターンのカラー展開を用意しました。しかも着物のように花をあしらった地模様が入ったシートがポイントです。シニアユーザーの場合、介護されるご家族が車いすを選ばれることが多いのですが、“nomoca” をショウルームで見たシニアユーザーが、“この赤い車いすに乗って出かけたい” と言ってレンタルされたことがその後の自分の開発の原動力にもなっています」

山内氏が開発し、2010年に発売されたシニア向け車いす “nomoca”。

“ラリー” しかり “nomoca” しかり、長い変遷を経て、車いすは、ここ日本でも乗る人が自ら気に入ったものを選び、それに乗ったときのイメージを自由に思い描きながらワクワクする段階まで、ようやく来たのだ。先に述べた「WHILL」も含め、次世代の電動車いすの発展も注目されるが、山内氏は、これから先の10年が、本当の意味で車いすが進化する時代だと見ている。

「ユーザーがどんな方で何を求めるかにもよりますが、日本でも車いすのデザイン性は2000年代以降進化してきたと思います。現在は、AIやIoT化、ロボティクスなども浸透し、これから先が、ようやく各々の技術が結実していくタイミングだと思っています。ただ、とかく注目されがちなのが華やかな技術やデザインですが、車いすで重要なのは、乗る人が快適でサポートする側も使いやすい生活の道具であること。座った時の身体へのフィット感や、介助ブレーキの握りさすさ、そういったディテールまで、行き届いた物づくりが求められるのは、これからも変わらないと思います。加えて、流通やサービスとしても、良い物がユーザーにしっかり届く仕組みを作っていく必要性があると感じています」

山内閑子(やまうち・のどか)
2001年、武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業、2003年、早稲田大学大学院修士課程理工学研究科建築学専攻修了。2012年、武蔵野美術大学大学院博士 [ 後期 ] 課程 博士(造形)取得。2008年、フランスベッドメディカルサービス(現フランスベッド)株式会社入社。メディカル事業本部主任として、シニア向け車いす “nomoca” をはじめ、セーフティブレーキ付き車いす、赤ちゃん型コミュニケーションロボット “たあたん”、ウェイテッドHugふとんほか、多くのプロダクト開発に携わる。

(text: 長谷川茂雄)

(photo: 増元幸司)

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