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「あの車いす、かっこいい!」車椅子バスケ元日本代表キャプテンが信じる、パラスポーツの力

朝倉 奈緒

2000年シドニーパラリンピック男子車椅子バスケットボール元日本代表チームキャプテンの根木慎志さん。現在は現役を引退されていますが、アスリートネットワーク副理事長、日本パラリンピック委員会運営委員、日本パラリンピアンズ協会副会長を務めるなど、パラスポーツを中心としたスポーツ全般の普及活動をされています。日々忙しく全国を巡る根木さんをキャッチし、そのご活躍ぶりを伺いました。

スポーツ全てに価値がある。車いすバスケを通じて、もっとパラスポーツの楽しさを知ってもらいたい

根木さんは現役時代から今まで、全国各地の小中高などの学校に訪問し、体験授業を行う活動を25年以上続けています。年間約100校の生徒たちに出会い、車椅子バスケを通してスポーツの面白さや楽しさを伝え、「友達づくり」をしているのです。18歳のとき怪我をし、約1年半入院。退院後、20歳で車椅子バスケと出会います。一般企業に勤めながら、講演活動をスタート。最初の講演は23歳、母校中学の恩師に依頼され、障がい者への理解を深めるために「車いす生活がどれくらい大変か」を生徒に話すというものでした。怪我をして間もない時期だったこともあり、「辛い思いを人に話したくない」と、最初は断ったといいます。それでも「社会にとって意義のあることだから」と説得され、講演会を実施。「その講演を聞いて、生徒たちは根木さんかわいそうと泣きながら言うんです。けれど僕は、その頃車椅子バスケがめちゃくちゃ面白ろかった。大変さを語るのは障がい者理解のひとつではあるけれど、それは僕のやり方ではないと思ったんです。」

その後、独自スタイルの講演が評判となり、他の学校からも講演会の依頼が殺到。あるとき、いつもの話をしたあと、たまたま車に積んでいた競技用の車いすを持ち込み、「今日はちょっと特別なものを見てほしい」と、車椅子バスケを生徒の前で披露しました。すると泣いていた生徒たちが「すごい!」「根木さんかっこいい!」と驚嘆の声をあげました。さらには「根木さんみたいに車いすに乗りたい!」と言う子までいたそうです。そのとき、「僕のやることはこれだ」と確信。「パラスポーツの可能性を世の中に広めたい。自分にしかできないことをやりたい」と決心し、会社を退職。以後、パラスポーツに関する活動に注力されています。

「スポーツが大好きだったから、怪我をしたとき、もうスポーツができへんって絶望的な気持ちになった。でも、もしあのときパラスポーツの存在を知っていたら、そんな気持ちにならずにパラリンピックを目指せるってワクワクしたかもしれない。スポーツ全てに価値があるし、みんなにももっと色々なスポーツがあることを知ってもらいたい。」

実は、「バスケは嫌いだった。」そんな根木さんにとって今や車椅子バスケはどのような存在なのでしょうか。

「車椅子バスケは面白いし、なんてったって車いすに乗った時点でみんな条件がほぼ一緒になる。健常者も足に障害がある人も、背が高くても低くても、コート上ではみんな同じ。みんなが楽しめるスポーツだから、車椅子バスケをしている僕みたいな人を見てかっこいい!って興味を持ってもらえたら、それがパラスポーツのメッセージとなって広がっていく。車椅子バスケが、そういうきっかけになってくれることを目指しているんですよ。」

当時、根木さんを見て「かっこいい!」と絶賛した生徒が車椅子バスケの日本代表選手として活躍していたり、小学校の教師になったことで、根木さんに体験授業を!と招いてくれるそうです。

「バスケやスポーツを介すことで、誰とでも友達なれる。例えば隣にいる君は性格も顔も形も全然違うけど、友達になればその違いも認め合える。違いを認め合えれば、みんなが素敵に輝けるわけじゃないですか。パラスポーツからそういうことを伝えたいんです。」

ひとりのパラアスリートの存在が、社会に与える影響力の大きさ

根木さんの逞しさを表すこんなエピソードがあります。世界最高峰のストリート・バスケットボール・イベント、「AND1 MIXTAPE TOUR 」 の“TEAM JAPAN”を選抜する大阪大会に出場したときのこと。根木さんは車椅子バスケ選手としてひとりで挑み、他の選手を圧倒。最初は車いすで爆走する根木さんを前に、他の選手は怯んでいましたが、あまりの機敏な動きに次第に本気になっていき、最後にはチーム最強と思われる相手チームの選手とヘルドボールに。二人とも地面に倒れこみましたが、それでも根木さんはボールを離さず、結果的には会場全体を味方にしてミドルシュートを決めます。この瞬間、コートを囲っていたみんなが号泣し、根木さんに拍手が沸き起こりました。この話は今や伝説となっているといいますが、この感動は根木さんにしか与えられないものだし、この場にいた人の車いす利用者に対する印象はがらりと変わり、生涯記憶に残る出来事となったでしょう。

写真提供:根木慎志

「車いすの人を見たら大変そうだから助けてあげなくちゃっていう視点ももちろん大事だけど、僕はあの車いすかっこいい車いすの人ってかっこいいって思われる社会にしたい。だってみんなかっこいいスニーカー履きたいし、人が履いてるの見たらそう思うでしょ。それと同じなんですよ、車いすだって。」

根木さんは文句なくかっこいい。それは車いすを堂々かつ颯爽と乗っているし、車椅子バスケを心から楽しみ、その楽しさを色んな人に知ってほしいと行動しているから。

「みんなが素敵に輝ける社会をつくりたい」と根木さんの言うように、誰にでもかっこよくなれる瞬間があるのです。そういった伝道師の存在により、本当に理想とする社会が実現できる気がしてなりません。さらには、根木さんさえも圧倒するくらいパワフルな次世代の選手が育ち、東京2020以降、大きな波が去ったあとも友達の輪が益々拡大することを強く願います。

(text: 朝倉 奈緒)

(photo: 大濱 健太郎 / 井上 塁)

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夢破れるも自己ベスト更新!伊藤選手「ごめんな~。でも僕は一生懸命走れました」

HERO X 編集部

試合直前のクラス分けで障害の一つ軽いクラスへの転向を余儀なくされた伊藤智也選手(バイエル薬品)は8月29日、T53クラス400メートル予選に出場、自己ベストを更新するも予選敗退が決まってしまった。クラス分けの決定も行われたこのレースだったが、残念ながら試合前のクラス分け判定が覆ることはなく、これで、伊藤選手のパラリンピックは終わりを迎える形となった。

左手に障がいが残り、体幹もほぼ無い伊藤選手だが、今回のクラス分け判定でこれまでのクラスであるT52よりも「障がいが軽い」と認定された。このため、手を自由に動かせる選手たちも出場するT53クラスに振り分けられての出場となった。

好調なスタートを切った伊藤だが、本人の予想通り、序盤から他の選手に引き離され、予選6着。しかし、自己ベストを更新する57秒16でフィニッシュを迎えた。

「何はともあれ、スタートラインに立てて、フィニッシュラインを超えることができた」

試合後のインタビューではスポーツマンらしくこう話していた伊藤選手。だが、関係者は無念を隠せない。伊藤選手がこれまでの世界大会で出場してきたT52クラス400メートルの決勝は27日夜に行われていたが、結果を見ると、今回の伊藤選手の記録は銅メダルの選手よりも早い結果となっている。

今回のレースでクラス分け判定が覆らなかったため、当初、出場を予定していたT52クラス1500メートルなどのレースにも出場ができなくなった。関係者は、伊藤選手の(体の)状態はどう考えてもT53クラスに当てはまらないため、「審査スコアの検証含め、今後も対応を考えたい」と話している。

金メダルという印を残してやれなかったことは残念

試合後、関係者に対し、「夢のようですし、RDSの若きエンジニアが寝食を惜しんで(レーサーを)開発してくれました。車いすというか、彼らの魂に乗って、勝負をさせてもらったんです。こんな贅沢なことが、一生懸命にやっていたら起こるんだなと思いました」と、軽快に話す伊藤選手。

「金メダルという印を、彼らに残してやれなかったことは残念です。でも、今日、僕は一生懸命走れました。(RDSのみんなには)『ごめんな~』と言うしかないないですね。(RDSの皆さんが)損得勘定抜きに、必死になっていく眼差し、言動を見ていると、一生懸命で、景色がきれいだなと。綺麗な景色に自分の人生を重ねていけるなら幸せだと思っていました。彼らの作るマシンのエンジンになっていい色のメダルを持ち帰りたいと思って走りました。そこは残念だけど、皆さんには感謝しています」と述べた。

(TOP素材元:https://sports.nhk.or.jp/paralympic/highlights/content/dcb7a693-0967-4a56-bff2-84432b76aebf/

(text: HERO X 編集部)

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