スポーツ SPORTS

スポーツでゾクゾクしてる?
パラスポーツライター荒木美晴がジャーナリストとして伝えたいこと

朝倉奈緒

ピョンチャンパラリンピックが開幕し、数々のアスリートたちの活躍が注目されている。しかし多くの皆さんにとって、パラスポーツがここまでエキサイティングで面白いスポーツであることを知ったのは、ごく最近ではないだろうか? 本記事では、今日のようにパラスポーツが注目されるようになるまで、パラスポーツの魅力を伝え続けてきた人物を紹介したい。パラスポーツ専門のウェブサイト『MA SPORTS(http://masports.jp)』代表・荒木美晴さん、パラリンピックではシドニー大会から取材を続けているライターだ。HERO X編集部では、荒木さんをお招きし、ジャーナリストとしての視点から、パラスポーツの魅力と東京2020の課題についてお伺いした。

1998年の運命的な出会い。
それから20年、パラスポーツと選手の魅力を伝え続ける

時は1998年、長野パラリンピック。たまたま観戦することとなったアイススレッジホッケー(現:パラアイスホッケー)との出会いが、荒木さんの人生を変えた。氷上の格闘技とも呼ばれるスリリングなこの競技の、強い衝撃音とスピード感、想像を超えた競技の迫力に圧倒され、これまでにないゾクゾク感を覚えたという。パラスポーツに魅せられた荒木さんは、フリーのライターに転身、それ以来、書き手としてパラスポーツの魅力を伝え続けている。

そんな人生の転機もあり、今回のピョンチャン大会で2大会ぶりの出場となったパラアイスホッケー日本代表は、荒木さんにとって思い入れのあるチームだ。「日本では、キャプテンを務める北海道苫小牧市出身の須藤悟選手に期待したい」と荒木さんは目を輝かせる。

初めてのパラリンピック取材は、2000年のシドニー大会。それまでにも国内の大会等で取材は重ねてきたが、パラリンピックなどの大舞台に携わるのはこの大会が初。世界のレベルを目の当たりにし、心を躍らせた長野大会を思い出したという。このときの心境について、「アクレディテーションカード(資格認定証)を首からさげたときは誇らしい気持ちでいっぱいでした。現地ではメディアセンターで資料をもらい、会場までバスに乗り、ミックスゾーンへの動線があってと、行ってみないとわからないことがたくさんあり、周りの人に教えてもらいながら慎重に行動しました。事前の合宿取材で顔や名前を覚えてもらっていたので、ミックスゾーンで待っていたら喜んでくれた選手もいて。無我夢中でしたね。」と、荒木さんは18年前を振り返る。

ルールを知ることで、
想像を超えたパラスポーツの奥深さを知る

今や日本のパラアスリートの間では名の知られたベテランライターの荒木さんに、インタビューの際に心がけていることを聞いた。「特に意識していることはないのですが、その選手ならではの感情の出し方であったり、言葉以上のところを察知するのが記者だと思うので、そこは大事にしています。それには長く競技や選手を見ていないと難しいので、できるかぎり継続して取材活動をするよう努力しています。」荒木さんならではの細やかな心づかいが、選手との距離を縮める近道になったのだろう。

「夏季スポーツは、2004年アテネパラリンピックで、国枝慎吾選手と斎田悟司選手がダブルスで金メダルとったところから始まり、車いすテニスの取材を続けています。パラスポーツはどの競技も観るとすごく興味深く面白いのですが、競技のことを知らない人がまだまだ多いので、記事を通してもっと知ってもえるようにと、さまざまな切り口で情報発信するよう心掛けています

車いすテニスや車いすバスケットボールは、学校の授業などでテニスやバスケットボールの実技経験が一般的であることからイメージしやすいが、パラ競技名を聞いても、全く想像のつかないものもある。

例えばゴールボールは視覚に障がいを持つ人のためのオリジナル競技。いわば新しいスポーツなんです。選手たちはアイシェードをして、鈴入りのボールを転がし合い、相手ゴールを奪う競技なのですが、その奥深さったらありません。普段目が見えている私たちは、まず目隠しをしたら、普通に立っていることすらままならないのに、鈴の音だけを頼りにゴールを守る選手たち。『本当は見えてるんじゃ……?』と思わずにいられないほどのすさまじい集中力と投球技術は必見です。実は国内の大会は晴眼者もメンバーとして出場できるので、私もいつか挑戦してみたいと思っています

以前、インターネットテレビに出演し、パラスポーツの競技紹介や解説をしたことがあるという荒木さん。こんなコメンテーターがいたら、パラスポーツ観戦がグッと楽しくなるに違いない。

ジャーナリストとして本当に伝えたいこと

東京2020に向けてバリアフリー化が急速に進められ、パラリンピックへの注目も集まっている現在に比べて、荒木さんが取材を始めた頃は、パラリンピックの存在すら知らない人も少なくなかったという。当時、現場で取材していたのは、フリーライターと一部の大手メディアくらいだったという。新聞に載るのは結果のみで、文化面や生活面に掲載されることも多かった時代。そこを変えたい、と荒木さんは思っていたという。「いつ事故に遭い、周りの人にどんな励ましの言葉をもらって成長できたか」といった選手のバックボーンは興味も引くし、大事な要素。でも、選手がこうして活躍する裏に、どんな工夫や努力があったかを知らないのは、もったいない

「私は、当初からパラスポーツをきちんとスポーツの側面から伝えたいというのは一貫していました。『腕がない、足がないのに速く泳げて、走ることができてすごい』と観る人は言う。では『なぜ速いのか?』を伝えるのが、私たちの仕事。『ない部分をどう補い、アスリートとしてどう競技と向き合ってきたか』という部分も大事にしたい。近年は、様態は様々ですが、プロ選手として活動したり、競技に専念する環境を整える選手も増えてきました。スポーツである以上、結果が求められるわけですが、レースや試合の結果が伴わなければ、時に厳しく記事を書くこともあるでしょう。賛否両論あると思いますが、これからのパラスポーツに対するメディアの報道姿勢も変化の時を迎えていると感じます」

ロンドン、リオ、そして東京2020。
それぞれのパラリンピック

史上最も成功したと言われている2012年ロンドンパラリンピックで、現場取材の中にいた荒木さんが一番ゾクゾクしたのは、水泳競技会場での一幕。

「観客の声がより響く構造をした会場が、満員な上に大歓声で、私たちがビリビリ感じるくらいの熱狂ぶりでした。長野パラリンピックのときと同じ高揚感に包まれましたね。尊敬すべきなのは、イギリスの選手以外のことも応援していたこと。表彰式ではイギリスの選手が表彰台に立っていなくても、最後まで立って国歌を聞き、拍手を送り、選手が捌けるまでみんな会場に残っていた。どの国の選手にも、会場全体で敬意を表していました」会場には、パラリンピックを初めて観た人が多かったが、誰もが「本当に面白かった!」と満足気な様子だったという。

逆に、2016リオデジャネイロオリンピック・パラリンピックは、様々な不安要素を抱えたままの開幕となり、たしかに会場も空席が目立つ競技が多かったが、“サンバの国”ならではのノリノリな国民性によって、会場は笑顔と声援に包まれていたという。

そして、東京2020。10大会連続でパラリンピックの前線にいる荒木さんが楽しみにする一方で、特に心配しているのは、“ボランティア” の分野。「外国からきた人たちに『来てよかった』と思ってもらえる入り口となるのがボランティアたちの対応」日本はまだ世界的な規模の大会は経験が少なく、知らない外国人とのコミュニケーションにも不慣れだ。そんな中、本当に心のこもった『おもてなし』ができるかが課題である。

「東京まで、あと2年半。今回の平昌パラリンピックをきっかけに、パラスポーツに興味を持ってもらえたら。障がいの程度に応じたルールや道具の工夫を知れば、もっと楽しいと感じるはず。パラリンピック競技以外にもたくさんのパラスポーツがあるし、観戦が無料の大会も多いので、身近なところからぜひ会場に足を運んで、生でパラスポーツの魅力に触れてほしいです」

荒木美晴
1998年長野パラリンピックでパラアイスホッケーを観戦 。その迫力とパワーに圧倒され、スポーツとしてのパラスポーツのトリコに。この世界の魅力を伝えるべく、OLからライターへ転身し、パラスポーツの現場に通う日々を送る。国内外におけるパラスポーツの認知度向上と発展を願い、障がい者スポーツ専門サイト「MA SPORTS」を設立。『Sportsnavi』『web Sportiva』などスポーツ系メディアにも寄稿している。パラリンピックは2000年のシドニー、ソルトレークシティ、アテネ、トリノ、北京、バンクーバー、ロンドン、ソチ、リオ、平昌大会を取材。

MA SPORTS
http://masports.jp

(text: 朝倉奈緒)

(photo: 壬生マリコ)

  • Facebookでシェアする
  • LINEで送る

RECOMMEND あなたへのおすすめ

スポーツ SPORTS

東京2020まであと1年!俳優・斎藤工「特別記者」就任記念イベントレポート

Yuka Shingai

東京オリンピック・パラリンピックの開催までいよいよあと1年。2002年からJOCオフィシャルパートナーとして日本選手団を応援してきた読売新聞は先日、CMキャラクターを務め、この度、東京2020の特別記者に就任した俳優・斎藤工さんと、3名の豪華オリンピアン・パラリンピアンを迎えトークイベントを開催した。「タレントが記者をやっている、というところはぶち壊して、ギリギリのところを攻めていきたい」と特別記者就任について意気込みを語った斎藤さん。初仕事となったのが、この日開催されたトークイベント「読売新聞スペシャルトーク〜東京 2020 開催まであと 1 年!〜」の司会進行。腕章をつけ、記者としての準備も万全に整ったところで、ゲストが登壇。オリンピック、パラリンピック出場時のエピソードや、今後活躍が期待される選手など、東京2020が一層楽しみになるトークが繰り広げられた。

オリンピアンが語る、注目の選手とは?

ミー太郎 (読売新聞日曜版の連載マンガ「猫ピッチャー」の主人公) から「特別記者」任命状を授与された斎藤工さん。俳優業に加え、映画監督、モノクロ写真家、YouTuber などマルチな活躍ぶりで知られている。

1人目のゲストは、前回リオ2016大会で200m平泳ぎの金メダルに輝いた元水泳選手の金藤理絵さん。東京2020は現役引退後、初めての大会となる。

「リオから3年経ったと思うと時間の流れが速く感じます。現役時代は『あの大会まであと〇日』とカウントダウンすることも多かったし、練習していると、1日1日長かったのに、終わってみると何でこんなに速く感じるのか不思議ですね」と選手時代と今の違いについて語った。

続けて2人目のゲストは、元サッカー日本代表の城彰二さん。1996年アトランタオリンピックで強豪ブラジルを下した、通称『マイアミの奇跡』に貢献した城さんに、サッカー少年だった斎藤さんから「オリンピックとワールドカップは2年おきに開催されてますが、代表に選ばれる意味合いというのは?」という質問が飛ぶ。

「サッカーのオリンピック代表は少し特殊で、23歳以下という年齢制限が設けられていて、プラス3人オーバーエイジで選ばれる。僕が出たアトランタオリンピックでは全員23歳以下でしたが、その勢いで2年後の日本代表に入ろうという気持ちを全員持っていましたね。当時はJリーグの選手がメインでしたが、今は海外のクラブチームに所属する選手も増え、日本のサッカーがレベルアップしたことを感じています。今回の大会では、現在スペインのレアル・マドリーで活躍している久保建英選手に期待しています」と時代の変化や注目選手についても言及した。

運命的なミスが、車いす陸上の金メダリストを生んだ!?

3人目のゲスト伊藤智也さんは、2008年北京パラ車いす陸上金メダリスト、2012年ロンドンパラ銀メダリスト。HERO X でも度々紹介、編集長で株)RDS代表の杉原との競技用車いすレーサーの開発で東京2020を目指す、58歳現役の車いすランナーだ(参考記事:http://hero-x.jp/article/1811/)。パラリンピックまで残りちょうど400日という区切りでもあったイベント当日、伊藤選手は今の心境と現状についてこのように語った。

「選手からするとパラリンピックまでは階段が何段もあって、出場するための階段を確実に一段一段昇っていかなくてはいけないので、今は冷静かつ落ち着いた時間ですね。11月の世界選手権で確実な成績を収めることがパラリンピック出場のカギとなるので、国内の選手はまずはそこに照準を合わせています」

今回登壇したゲストのうち唯一の現役アスリートである伊藤選手は、34歳で多発性硬化症を発症したことから自立歩行が困難となり、車いす生活が始まった。2008年北京パラリンピック、2012年ロンドンパラリンピックでそれぞれメダルに輝き一度は引退したが、この度現役復帰、東京2020のトップを目指している。伊藤選手と車いす陸上競技とのドラマティックな出会いから、トークイベントは盛り上がりをみせる。

伊藤智也選手(以下、伊藤):「たまたま同じ病院に入院して友だちになった方の息子さんが車いすを扱う会社に勤めていて、買ってくれないかと言われたんです。渡りに船だと思って『持ってきてください』とお願いしたところ、営業担当の人が間違って競技用の車いすを持ってきた。それが競技を始めたきっかけです。

初めて出場した2004年のアテネパラリンピックではボコボコにやられました()。ですが僕は究極の負けず嫌いで、このままでは終われないと思いました。そもそも競技を始めた年齢が引退するくらいの年齢ですが、僕たちの競技は競技者個人だけでなく、道具の進化も大きく関係してきます。競技用マシンが変貌を遂げていくのを見て、育てていくことも楽しい。それが努力という形となり、成果として現れたのかもしれません」

城彰二さん(以下、城):「嘘みたいな話ですね、僕は絶対嘘だと思っていますけど ()

斎藤工さん(以下、斎藤):「金藤さんと城さんは負けず嫌いな一面はありますか?」

金藤理恵さん(以下、金藤):「我が家は兄弟3人とも水泳をやっていて、同じ平泳ぎ専門だった3つ上の姉に対しては勝ちたいって気持ちがありました。あとは男子には短距離では勝てないのも、どうしてどうして、と思っていましたね」

:「僕は意外と負けず嫌いではないんです。エースの下で可愛がられる子分みたいに、要領の良さでやってきたタイプ。あと、ゴールキーパーはちょっと変わった人、ディフェンスは緻密で真面目な人、中盤は色んな対応ができる人、ストライカーは勢いがある人みたいにポジションによっても変わる傾向がサッカーにはありますね」

斎藤:「なるほど。おふたりがオリンピックを意識しだしたのはいつ頃ですか?」

金藤:「私は小学校の卒業文集に将来の夢はオリンピックって書いていたんですが、その時は絶対行きたいというより、ぼんやり思っていた程度でした。本当にオリンピックに行きたいと思ったのは、北島康介選手が2連覇を果たして『なんも言えねえ』と言っていた北京オリンピックの時で、やっぱり私もここに立ちたいって思いました。それから10年くらいかけてオリンピックが絶対叶えたい目標に変わっていきました」

:「サッカーというとやはり大きな大会はワールドカップなので、僕はそっちに目が向いていて、オリンピックを意識したのは予選大会くらいからでした。アトランタでのオリンピック出場はメキシコ大会以来28年ぶりで、僕たちがまだ生まれてなかった頃というのもあって、なかなかピンとこなかったのかもしれませんね」

斎藤:「確かに、オリンピックでサッカーというイメージを作ったのはアトランタのマイアミの奇跡があったからかもしれませんね」

競技用レーサーは自分専用にカスタマイズ。値段はなんと

マシン側面には HERO X のロゴも。

ここで伊藤さんが、競技用レーサーに乗って再登場。その近未来的なデザインに斎藤さんの口から思わず「AKIRAの世界みたい」と感嘆の声が漏れた。もちろんこのモデルは、エクストリーム・スポーツのマシン開発に精通したエンジニアや気鋭のプロダクトデザイナーらと結成したRDS社のチーム伊藤で開発したマシン。

伊藤:「普段使っている車いすはアルミ製ですが、この競技用レーサーは素材にカーボンを使っています。最大の特徴はマシンに乗って漕いでいる姿を全てデータ化して可視化しているんです。そこから一番早く走れると思われるフォームを想定した形で自分の体にフィットするマシンを作っていただいています。実はこのレーサーに正座する形で乗っているので、12時間も乗っていると周りには『脚が痺れてきませんか?』と心配されるんですが、元々痺れてるんで分からないんですよ()

齋藤:「そこ、突っ込み方が分かりません()

:「笑っていいのか分からないですよ! ちなみにこれ1台でおいくらくらいするんですか?」

伊藤:「従来のマシンですと、ホイール込みで560万円くらいですかね。僕が今乗っているものだと、開発からワンセットなので、正確な値段は言えない、というか分からないというのが正しいですね。」

金藤:「値段がつけられないレベルなんですね」

伊藤:「はい、絶対に壊せないですね(笑)」

金藤:「以前、競技用の車いすを拝見したことがあるんですが、メカって感じですよね。すごいとしか言葉が出てきません」

そんな伊藤さんの注目マシンから、話題は現在放映中のNHK大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』へシフトする。本作でアムステルダムオリンピックのメダリストでもある競泳選手、高石勝男役を演じる斎藤さんを中心に話が飛び交い、終始笑いの絶えないトークイベントは無事に終了。

その後は斎藤さんの単独記者会見。記者としてどのように情報源やインプットを広げていくかという質問には「情報が蔓延するなかで、どういうことが人の奥底まで記憶に残せるのか例題を挙げていっている最中。自分自身を実験することで見える景色もあるので、記者としての活動も特殊なものになっていくのではないかと今探っているところです」と特別記者として意欲をみせ、また「レーサーの機動力に感動しましたし、競技者とメカニックの共同作業だなと実感しましたね。水泳やサッカーなど期待しているオリンピック競技もありますが、パラリンピックは更に選手のドラマがありそうで楽しみです」とパラリンピック競技やマシンへの強い関心も語られた。

(画像提供:読売新聞東京本社)

(text: Yuka Shingai)

  • Facebookでシェアする
  • LINEで送る

PICK UP 注目記事

CATEGORY カテゴリー