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スラロームの王者が再び狙う、世界の頂点 【鈴木猛史:2018年冬季パラリンピック注目選手】前編

岸 由利子 | Yuriko Kishi

冬季パラリンピックの競技において、世界中からひと際熱い眼差しが注がれるチェアスキー。高校3年生の時、トリノパラリンピックに初出場して以来、三大会連続の出場を果たしたチェアスキーヤー、KYB所属の鈴木猛史選手は、バンクーバーではジャイアント・スラローム(大回転)で銅メダル、ソチではダウンヒル(滑降)で銅メダル、スラローム(回転)で金メダルを獲得し、世界の頂点に立った。“回転のスペシャリスト”の異名を持つ覇者は今、2度目の頂点を目指すべく、目前に迫るピョンチャンパラリンピックに向けて着々と準備を進めている。チリ合宿から帰国したばかりの鈴木選手に話を聞いた。

『スラローム』の本当の意味とは?

身体と技術の融合によって、極限まで追求された超絶技巧のパフォーマンス力と時速100kmを優に越えるスピードが、観る者を圧倒的に魅了するチェアスキー。選手たちは、1本のスキー板にシートを取り付けたマシンに座位で乗り、アウトリガーと呼ばれる2本のストックを自在に操り、雪上を滑り競い合う。

ダウンヒル(滑降)やスーパーG(スーパー大回転)が“高速系種目”と呼ばれるのに対し、鈴木選手が得意とする「スラローム(回転)」は、ジャイアントスラローム(大回転)やスーパーコンビ(スーパー複合)と並ぶ“技術系種目”。風と一体化して踊っているようなリズミカルで、溌剌たる滑りが特徴的だが、アウトリガーを駆使した絶妙なバランス感覚と高度なテクニックの共存がモノを言う難技である。

幸先良好。今シーズン初の合宿は、南米チリ

今年8月29日から26日間、今シーズン初となる日本のチェアスキー強化指定選手合宿が、南米チリで行われた。その期間中、鈴木選手たちが滞在したのは、標高約3000mに佇むホテル。日本を発つ当日の朝まで、JISS(国立スポーツ科学センター)で低酸素トレーニングを行うなどして、万全の体調で初日を迎えた。

「今回の合宿が初滑りということで、まずは滑りの感覚を思い出すことから始めようと思っていたのですが、予想に反して、トレーニング内容が少々飛ばし気味でして(笑)。基本的な練習を終えたとたん、最もスピードの出るダウンヒル(滑降)という種目のトレーニングに入ってしまったので、若干心配でしたが、問題なく滑ることができました。良いスタートが切れたのではないかと思います」

「僕は一人で戦っているんじゃない。
みんなで戦っているんです」

チェアスキー界を牽引する日本のトップアスリートのマシンは、全てのパーツがオーダーメイドで開発されている。鈴木選手の場合は、こうだ。スキーブーツの役割を担うシート部分は、多彩なパラ競技のシート関連製作を手掛ける義肢装具業界のリーディングカンパニー、川村義肢株式会社。スキー板とシート部分を繋ぐフレームは、業界No.1メーカーの日進医療器株式会社。走行中の風の抵抗を減少させるために装着するカウルは、自動車部品の老舗メーカー、IMASEN。そして、膝や足首と同じように、衝撃を緩和するクッションの役割を担うサスペンションは、鈴木選手の所属するKYB株式会社(以下、KYB)。

実に4社を越えるメーカーのエキスパートたちの渾身の技術とエネルギーが、1台のマシンに集結しているのだ。アスリートが、開発チームである各メーカーとタッグを組み、世界最速のマシンを作り上げ、皆で勝ちに行く。この戦い方は、ドライバーと、オリジナルマシンを製造するコンストラクターが、いわば一つのレーシングチームを成し、しのぎを削るF1とどこか似ている。

「チェアスキーは個人競技と言われていますが、完全にチームプレイです。僕は一人で戦っているのではなく、支えてくださる皆さんの力があったからこそ、スタート地点に立てたし、メダルを獲ることもできた。もしその方たちの力がなければ、成し得なかったと思います。とても心強く、ありがたいことです」

後編へつづく

鈴木猛史(Takeshi Suzuki)
1988年生まれ。福島県猪苗代町出身のチェアスキーヤー。小学2年の時に交通事故で両脚の大腿部を切断。小学3年からチェアスキーを始め、徐々に頭角を現す。中学3年時にアルペンスキーの世界選手権に初出場し、高校3年時にトリノパラリンピックに出場。冬季パラリンピックのアルペンスキー(座位)に3大会連続出場を果たし、バンクーバーパラリンピック大回転で銅メダル、ソチパラリンピック回転で金メダル、滑降で銅メダルを獲得。2014年、春の叙勲で紫綬褒章受章、福島県民栄誉賞受賞。2015年8月よりKYB株式会社所属。

[TOP動画 引用元]The IPC(The Internatinal Paralympic Committee)

(text: 岸 由利子 | Yuriko Kishi)

(photo: 増元幸司)

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まもなく開幕 パラリンピック 東京パラに繋ぐパラリンピックレガシー

HERO X 編集部

ジャスパル・ダーニ(Jaspal Dhani)。彼の話に耳を傾けていると、どんよりとした冴えない気持ちが晴れ、私たちを明るい未来に導いてくれる気がする。だが、彼は宗教の指導者ではないし怪しい予言者でもない。

それでは彼はいったい何者なのか。

ジャスパル・ダーニ氏は2020年のオリンピック・パラリンピック開催を控え、世界中の注目が東京に集まりはじめた2019年に来日。そのインタビュー記事によれば彼は「ロンドンパラリンピックの仕掛け人」といわれている。

記事を読む▶ロンドンパラリンピックの仕掛け人に聞く『東京2020成功のカギ』 ジャスパル・ダーニ氏 来日インタビュー 前編

1980年代は車いすバスケットボールのプレイヤーとして活躍、その後は車いすバスケットボールチーム『ロンドン・タイタンズ』を共同創設しコーチ兼経営者として強豪チームに育て上げている。また、24歳の時からインクルーシブ社会の実現に尽力するかたわら、チャリティ活動にも熱心に取り組んできたという。

ここまでの情報だけでも彼がなぜ「ロンドンパラリンピックの仕掛け人」と言われるのか、その理由は充分であり、東京で開催されるパラリンピックのアドバイザーとして、適任の人物であることにも納得がいく。

さらに素晴らしいのは、彼の話が単なるロンドンパラリンピックの成功秘話に終わらないところだ。前述したように、彼は車いすバスケットボールのプレイヤーとして活躍するかたわら、24歳の頃から一貫してインクルーシブ社会の実現をめざしてきた。若いころから、障がいのある人もない人もお互いに尊重し支え合う共生社会に向けて、さまざまな活動に取り組んできたのである。ロンドンパラリンピックは、その取組の一つにすぎないのだ。

自分の障がいに向き合い、高みを目指すパラアスリートであり、めざすべき社会のあり方を示す国際的な指針ともいわれるインクルーシブ社会を目指す活動家としての実績を考えれば当然のことかもしれないが、彼が行ってきたことは地道に日々トレーニングを重ね、そして深い洞察力を基に行動してきただけだ。

誰にでも簡単にできることではないと敬遠する人もいるだろう。だが、彼の歩んできた足跡を見れば「今からはじめることで明日を変えることができる」ことは誰にでも可能なことだと教えてくれる。

インタビューで語られる彼の言葉を聞いていると、私たちも「今からはじめることで明日を変えることができる」という気持ちになる。

答えはいつもシンプルだ。何もしなければ何も変わらない。だが、今起こした行動で明日は変わる。誰もが忘れがちな、こんなあたりまえのことを思い出させてくれる情熱が、彼のしてきたことの中にはある。

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(text: HERO X 編集部)

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