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射撃の名手の次なる標的は、“氷上のチェス”【鈴木ひとみ:HEROS】後編

岸 由利子 | Yuriko Kishi

パラリンピックの先駆けとなったイギリスの国際ストーク・マンデビル競技大会では、1987年の陸上競技で金メダルを獲得。2000年より始めたパラ射撃でもめきめきと頭角を現し、2002年、世界射撃選手権ライフル競技に出場を果たしたのち、2004年アテネパラリンピック日本代表に選出された鈴木ひとみ選手。その後、ピストルに転向し、射撃選手として活躍するかたわら、2年前に始めた“氷上のチェス”こと、車いすカーリングでは、東京都の強化指定選手に選ばれるなど、早くも才能を発揮し始めている。次々と新たな挑戦に挑むバイタリティの源は?パラアスリートとして33年、第一線を走り続ける鈴木選手に話を聞いた。

車いすカーリング、3年目の今が伸び盛り

車いすカーリングは、1990年代にヨーロッパで生まれたパラ競技の一つで、2006年トリノ大会から、冬季パラリンピックの正式種目になった。1チームは男女混合の4名で構成され、1試合8エンドで、2チームによる対戦形式で行われる。選手たちは、「デリバリースティック」と呼ばれるキューを使い、ホッグラインの手前からハウス(円)に向かって、重さ20kgのストーンを投げる。1エンドにつき、各選手2球、両チーム交互で計8球の投球を行い、最終的にハウスの中に残ったストーンのうち、ハウスの中心であるティーにより近づけたチームが勝ちとなる。

勝敗には、投球の技術と共に、巧みな戦術が問われることから、“氷上のチェス”として知られる車いすカーリング。かねてから興味のあった鈴木選手は、その年に軽井沢で開催された日本選手権大会を観たことをきっかけに、2年前より本格的に活動を始め、現在は、信州チェアカーリングクラブに所属している。2016年日本選手権では、同チームが準優勝を果たし、鈴木選手は、今年、東京都の強化選手に選出された。

「あまり色々と手を広げすぎるのもどうかと思ったのですが、タイミングも運のうちなのかなと。今年で55歳になります。若くはないけれど、まだ3年目なので、今が伸び盛り(笑)。技術的に伸びていく余地があるし、楽しいですね」

チームプレイの楽しさを生まれて初めて知った

毎週金曜には、自ら運転する車で軽井沢に向かい、翌月曜の早朝に、都内の自宅に車で戻る生活を送っている。関東近郊で、車いすカーリングを練習できる環境は、唯一、軽井沢とその隣町の御代田町(みよたまち)にあるからだ。チームメンバーの多くも、その界隈に住んでいる。

「車いすカーリングは、私にとって、初めてのチームスポーツです。チームプレイの面白さは、実力があるからといって、必ず勝利に結びつくのではないこと。不思議と、その時のチームメンバーのハーモニーのようなものが、チーム全体の士気を上げて勝つことがあります。上手くいった時や失敗した時に、チームメンバーにどう声を掛けるか。あるいは、掛けてもらうか。それによっても、その後の試合運びは、断然変わってきます。自分自身の成長を実感することも嬉しいですが、同じチームの選手が伸びていく姿を間近に見ることは、すごく新鮮で面白いですね」

超軽量マグネシウム合金のエキスパートが手掛ける、世界にひとつだけのデリバリースティック

重さ20kgのストーンの投球に使われるデリバリースティック。従来は、カナダ製の既製品を使用していたが、ある程度の重さがあり、投球を重ねるごとに、ストーンの重さが体に溜まってくるのが、鈴木選手の悩みだった。多い時で、約1時間45分の試合を1日3回行うと聞けば、納得がいく。

少しでも、デリバリースティックを軽くすることはできないだろうか。横浜市総合リハビリテーションセンターに相談したところ、マグネシウム合金の加工に特化したモノづくり系ベンチャー、株式会社マクルウと引き合わせてもらうことに。上記は、同社が鈴木選手のためにオーダーメイドで開発した試作品だ。

パイプ部の重量は、従来の346gから305gと、わずか41gの差。「でも、全然違うんです。随分ラクになりました。今、練習でも使っていますが、これからもっと使い込んでいって、マクルウさんと一緒に改良を重ねていきたいと思います」

同社常務取締役の安倍信貴氏によると、現行製品の一つ、マグネシウム合金製杖“フラミンゴ2”のシェルピンクが、鈴木選手のイメージに最も合っていたという。その杖を流用することでスピーディーな試作が実現できたが、その一方で予想外のハプニングもあった。

「グリップ部分には、当社の杖で使用するポリウレタン製のものを装着したのですが、氷上で長時間することで、湿気を含んで滑りやすくなってしまい、練習の後半、抜け落ちてしまいました。最終的には、デリバリースティックに最適なマグネシウム合金パイプを独自に開発し、より軽量で、使いやすさに富んだ1本に仕上げる計画です。鈴木選手をはじめ、日本チームに貢献していきたいと考えております」

軽い車いすを好む人が増える中、鈴木選手は、車いすカーリングを始めて以来、あえて重めの車いすを使用しているという。

「今の車いすは、多分17kgくらい。根性ドラマみたいですけど、一番手っ取り早く鍛えられるかなと思ったんですね(笑)。移動は基本的に車なので、行った先で車いすを降ろしては、また積み上げるの繰り返し。その先々で、嫌でもやらなくちゃいけないので、腕はもちろん、普段あまり使わない筋肉もおのずと動かせます」

車いすカーリングに出逢い、鈴木選手の心にも、ある種のパラダイムシフトが起きた。パラリンピックありきで頑張るのではなく、あくまで、心身共に打ち込める好きなことの延長線上に、パラリンピックがあるということ。

「2022年北京パラリンピックの年、私は還暦を迎えます。時の早さに驚くばかりですが、全ては自分が選び取ってきたこと。これからも毎日を大切に、ベストを尽くしていきたいと思います」

前編はこちら

鈴木ひとみ(Hitomi SUZUKI)
1982年、ミス・インターナショナル準日本代表に選出。モデルとして、ファッションショーやCMなどで活躍する中、交通事故で頸椎を損傷し、車いす生活となる。その後、イギリスの国際ストーク・マンデビル競技大会で金メダルを獲得(陸上競技)、2004年アテネパラリンピックの射撃日本代表に選手されるなど、多彩なパラ競技において、その才能を発揮する。2005年、エアライフルから短銃に転向、射撃で活躍するかたわら、2年前より車いすカーリングを始める。2016年の日本選手権では、所属する信州チェアカーリングクラブが準優勝、東京都の強化指定選手に選出され、2022年冬季パラリンピック出場を目指す。

鈴木ひとみオフィシャルサイト
http://www.hitomi-s.jp/

マクルウ
http://macrw.com/

(text: 岸 由利子 | Yuriko Kishi)

(photo: 壬生マリコ)

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オリンピック&パラリンピックの両大会に3回連続出場!? 世界を変えた、7人の鉄人アスリートたち

岸 由利子 | Yuriko Kishi

彼女の名は、ナタリー・デュトワ。2004年アテネオリンピックへの出場は、わずかな差で惜しくも逃したが、同年に開催されたアテネパラリンピックでは、金メダル5個と銀メダル1個を獲得。その後、2008年北京オリンピック、北京パラリンピックの両大会に出場するという偉業を成し遂げた南アフリカ共和国の女子競泳選手だ。同じ世界的なスポーツ大会であるオリンピックとパラリンピックを分別するひとつの要素を障がいとするなら、両大会への出場を果たしたデュトワ選手は、問題はその有無ではなく、あくまでアスリートの実力だということを如実に証明した。今回は、あらゆる垣根を超えて、ボーダレスに活躍する7人の“鉄人アスリート”をご紹介したい。

片足で五輪出場を果たした
“水の女王”ナタリー・デュトワ

ナタリー・デュトワ選手のオリンピック、パラリンピックでの功績については、冒頭で触れた通り。イギリス連邦に所属する国々と地域から約70チームが参加し、4年ごとに開催される総合競技大会「コモンウェルス・ゲームズ」での活躍も目覚ましい。2002年の800mでは健常者アスリートと共に出場し、予選を突破、障がい者部門の50mと100mでは、世界記録を樹立し、金メダルを獲得。続く2006年の同大会でも、50mと100mの2種目で優勝、2連覇を達成。

2010年、世界中のスポーツ・ジャーナリストの投票により選出される「ローレウス世界スポーツ賞」において、障がい者スポーツと健常者スポーツの障壁を打ち破る功績が称えられ、年間最優秀障がい者選手賞を受賞した。

ポーランドの金星、ナタリア・パルティカ
オリンピック&パラリンピックに3大会連続出場

引用元:MATRIX24 https://goo.gl/eTGF1Y

ナタリア・パルティカ選手は、前述のナタリー・デュトワ選手と共に、2008年北京オリンピックに出場した唯一のパラアスリートであり、オリンピックとパラリンピックに出場した史上初の卓球選手。以後、オリンピックには、ロンドン大会、リオ大会と3大会連続出場を果たしている。

パラリンピックには、2004年アテネ大会から、4大会連続出場しており、アテネ、北京、ロンドンでは、シングルス(クラス10)で金メダルを獲得、リオでは、団体戦(クラス6-10)で金メダルを獲得するなど、枚挙にいとまがない。障がい者大会のみならず、ヨーロッパ選手権や世界選手権など、数多くの健常者の大会にも出場し続けている。

歴史に残る超人。
水泳の常識を覆したテレンス・パーキン

生まれつき耳が聞こえない南アフリカ共和国の競泳選手、テレンス・パーキンは、オリンピックとデフリンピックの両大会でメダリストに輝いたデフアスリート。2000年シドニーオリンピックの200m平泳ぎで銀メダルを獲得し、5大会連続出場したデフリンピックでは、計29個の金メダルを獲得(2009年台北大会閉幕時点)。1999-2000、国際水泳連盟(FINA)の世界ランキングに登録された、史上唯一の超人アスリートだ。常軌を逸するその功績は、今もなお、語り継がれている。

オリンピックにしか出場しなかった
パラアスリート、ハラシ・オリヴェール

パラリンピックの起源とされるストーク・マンデビル競技大会が、英国で初めて開催されたのは、1948年7月28日のこと。そのはるか昔、まだパラリンピックが存在しなかった1920年代後半から1930年代にかけて、3大会のオリンピックに出場し、金メダル3個と銀メダル1個を獲得したのが、ハンガリーのハラシ・オリヴェール。オリンピックに初めて出場した片足の水球選手だ。

元祖・車いすスーパーアスリート、
ネロリ・フェアホール

引用元:NZOC(the New Zealand Olympic Committee)http://www.olympic.org.nz/athletes/neroli-fairhall/

オリンピック出場を果たした史上初の車いすアスリート、ネロリ・フェアホール。25歳の時、バイク事故で下半身不随となり、32歳の時、母国・ニュージーランドで、アーチェリーに取り組み始めてから、わずか6年後の1982年、総合競技大会「コモンウェルス・ゲームズ」で、健常者アスリートを制して、金メダルを獲得したのち、1984年、ロサンゼルスオリンピックに出場。パラリンピックには、1972年ハイデルベルク大会、1980年アーネム大会、1988年ソウル大会、2000年シドニー大会の4大会に出場。アーネム大会のアーチェリー競技で金メダルを獲得したほか、IPCアーチェリー世界選手権大会や国際トーナメントなどで、数々のタイトルを獲得。2000年シドニー大会では、フェアホール選手の活躍を称えて、大英帝国勲章が授けられた。

マーラ・ランヤン
不屈の闘志で、果てしなく走り続ける陸上界の女神

マーラ・ランヤンは、スタルガルト病という難病のために、視覚の大半を失いながらも、2000年シドニーオリンピックに出場し、1500m走で米国代表選手中トップの8位入賞を果たした米国の女子陸上選手。

前年の1999年、カナダのウィニペグで開催されたパンアメリカン競技大会の1500m走での金メダル獲得こそ、ランヤン選手が、健常者アスリートが出場する世界大会での快挙の始まりだった。同年、“スポーツのバイブル”として名高い陸上競技専門誌「トラック・アンド・フィールド・ニュース」が、ランヤン選手を米国内アスリートランキング2位と発表し、国内外から大きな注目を集めた。

パラリンピックでは、1992年バルセロナ大会の100m走をはじめとする4種目で金メダルを獲得、続く1996年アトランタ大会では、五種競技(Pentathlon P10-12)で金メダル、Shot Put F12で銀メダルを獲得するなど、名実共にトップアスリートとして活躍。2014年4月、ランヤン選手が、400m走、800m走、1500m走、5000m走、ハイジャンプ、ロングジャンプ、 五種競技(Pentathlon)の世界記録保持者であることをIPC(国際パラリンピック委員会)が発表した。(いずれもT13クラス)

オリンピックメダリスト&デフ水泳界の先駆者、
ジェフ・フロート

ジェフ・フロートは、米国出身の聴覚障がい者アスリートとして、オリンピックで初めて金メダルを獲得した競泳選手。チームキャプテンを務めた1984年ロサンゼルス大会では、男子4×200m自由形リレーで金メダルを、男子個人200m自由形では4位に入賞。2000年、国際ろう者スポーツ委員会(International Committee of Deaf Sports)によって、「世紀の聴覚障がいオリンピアン」に選出されたほか、数々の賞を受賞し、殿堂入りを果たした。

来たる2020年の東京大会では、オリンピック、パラリンピックの両大会に出場する日本人選手も出てくるのではないだろうか。世界を轟かせる驚天動地に、期待したい。

[TOP動画 引用元]https://youtu.be/mfNqCMVougk

(text: 岸 由利子 | Yuriko Kishi)

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