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オリンピック&パラリンピックの両大会に3回連続出場!? 世界を変えた、7人の鉄人アスリートたち

岸 由利子 | Yuriko Kishi

彼女の名は、ナタリー・デュトワ。2004年アテネオリンピックへの出場は、わずかな差で惜しくも逃したが、同年に開催されたアテネパラリンピックでは、金メダル5個と銀メダル1個を獲得。その後、2008年北京オリンピック、北京パラリンピックの両大会に出場するという偉業を成し遂げた南アフリカ共和国の女子競泳選手だ。同じ世界的なスポーツ大会であるオリンピックとパラリンピックを分別するひとつの要素を障がいとするなら、両大会への出場を果たしたデュトワ選手は、問題はその有無ではなく、あくまでアスリートの実力だということを如実に証明した。今回は、あらゆる垣根を超えて、ボーダレスに活躍する7人の“鉄人アスリート”をご紹介したい。

片足で五輪出場を果たした
“水の女王”ナタリー・デュトワ

ナタリー・デュトワ選手のオリンピック、パラリンピックでの功績については、冒頭で触れた通り。イギリス連邦に所属する国々と地域から約70チームが参加し、4年ごとに開催される総合競技大会「コモンウェルス・ゲームズ」での活躍も目覚ましい。2002年の800mでは健常者アスリートと共に出場し、予選を突破、障がい者部門の50mと100mでは、世界記録を樹立し、金メダルを獲得。続く2006年の同大会でも、50mと100mの2種目で優勝、2連覇を達成。

2010年、世界中のスポーツ・ジャーナリストの投票により選出される「ローレウス世界スポーツ賞」において、障がい者スポーツと健常者スポーツの障壁を打ち破る功績が称えられ、年間最優秀障がい者選手賞を受賞した。

ポーランドの金星、ナタリア・パルティカ
オリンピック&パラリンピックに3大会連続出場

引用元:MATRIX24 https://goo.gl/eTGF1Y

ナタリア・パルティカ選手は、前述のナタリー・デュトワ選手と共に、2008年北京オリンピックに出場した唯一のパラアスリートであり、オリンピックとパラリンピックに出場した史上初の卓球選手。以後、オリンピックには、ロンドン大会、リオ大会と3大会連続出場を果たしている。

パラリンピックには、2004年アテネ大会から、4大会連続出場しており、アテネ、北京、ロンドンでは、シングルス(クラス10)で金メダルを獲得、リオでは、団体戦(クラス6-10)で金メダルを獲得するなど、枚挙にいとまがない。障がい者大会のみならず、ヨーロッパ選手権や世界選手権など、数多くの健常者の大会にも出場し続けている。

歴史に残る超人。
水泳の常識を覆したテレンス・パーキン

生まれつき耳が聞こえない南アフリカ共和国の競泳選手、テレンス・パーキンは、オリンピックとデフリンピックの両大会でメダリストに輝いたデフアスリート。2000年シドニーオリンピックの200m平泳ぎで銀メダルを獲得し、5大会連続出場したデフリンピックでは、計29個の金メダルを獲得(2009年台北大会閉幕時点)。1999-2000、国際水泳連盟(FINA)の世界ランキングに登録された、史上唯一の超人アスリートだ。常軌を逸するその功績は、今もなお、語り継がれている。

オリンピックにしか出場しなかった
パラアスリート、ハラシ・オリヴェール

パラリンピックの起源とされるストーク・マンデビル競技大会が、英国で初めて開催されたのは、1948年7月28日のこと。そのはるか昔、まだパラリンピックが存在しなかった1920年代後半から1930年代にかけて、3大会のオリンピックに出場し、金メダル3個と銀メダル1個を獲得したのが、ハンガリーのハラシ・オリヴェール。オリンピックに初めて出場した片足の水球選手だ。

元祖・車いすスーパーアスリート、
ネロリ・フェアホール

引用元:NZOC(the New Zealand Olympic Committee)http://www.olympic.org.nz/athletes/neroli-fairhall/

オリンピック出場を果たした史上初の車いすアスリート、ネロリ・フェアホール。25歳の時、バイク事故で下半身不随となり、32歳の時、母国・ニュージーランドで、アーチェリーに取り組み始めてから、わずか6年後の1982年、総合競技大会「コモンウェルス・ゲームズ」で、健常者アスリートを制して、金メダルを獲得したのち、1984年、ロサンゼルスオリンピックに出場。パラリンピックには、1972年ハイデルベルク大会、1980年アーネム大会、1988年ソウル大会、2000年シドニー大会の4大会に出場。アーネム大会のアーチェリー競技で金メダルを獲得したほか、IPCアーチェリー世界選手権大会や国際トーナメントなどで、数々のタイトルを獲得。2000年シドニー大会では、フェアホール選手の活躍を称えて、大英帝国勲章が授けられた。

マーラ・ランヤン
不屈の闘志で、果てしなく走り続ける陸上界の女神

マーラ・ランヤンは、スタルガルト病という難病のために、視覚の大半を失いながらも、2000年シドニーオリンピックに出場し、1500m走で米国代表選手中トップの8位入賞を果たした米国の女子陸上選手。

前年の1999年、カナダのウィニペグで開催されたパンアメリカン競技大会の1500m走での金メダル獲得こそ、ランヤン選手が、健常者アスリートが出場する世界大会での快挙の始まりだった。同年、“スポーツのバイブル”として名高い陸上競技専門誌「トラック・アンド・フィールド・ニュース」が、ランヤン選手を米国内アスリートランキング2位と発表し、国内外から大きな注目を集めた。

パラリンピックでは、1992年バルセロナ大会の100m走をはじめとする4種目で金メダルを獲得、続く1996年アトランタ大会では、五種競技(Pentathlon P10-12)で金メダル、Shot Put F12で銀メダルを獲得するなど、名実共にトップアスリートとして活躍。2014年4月、ランヤン選手が、400m走、800m走、1500m走、5000m走、ハイジャンプ、ロングジャンプ、 五種競技(Pentathlon)の世界記録保持者であることをIPC(国際パラリンピック委員会)が発表した。(いずれもT13クラス)

オリンピックメダリスト&デフ水泳界の先駆者、
ジェフ・フロート

ジェフ・フロートは、米国出身の聴覚障がい者アスリートとして、オリンピックで初めて金メダルを獲得した競泳選手。チームキャプテンを務めた1984年ロサンゼルス大会では、男子4×200m自由形リレーで金メダルを、男子個人200m自由形では4位に入賞。2000年、国際ろう者スポーツ委員会(International Committee of Deaf Sports)によって、「世紀の聴覚障がいオリンピアン」に選出されたほか、数々の賞を受賞し、殿堂入りを果たした。

来たる2020年の東京大会では、オリンピック、パラリンピックの両大会に出場する日本人選手も出てくるのではないだろうか。世界を轟かせる驚天動地に、期待したい。

[TOP動画 引用元]https://youtu.be/mfNqCMVougk

(text: 岸 由利子 | Yuriko Kishi)

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“障がい”を商売に役立てる!車いす陸上選手、木下大輔のタブーを打ち破る挑戦 前編

下西 由紀子 | Yukiko Shimonishi

のどかな風景が広がる宮崎大学グラウンドの一角。体育会の部室が並ぶ長屋の端の倉庫で、黙々と競技用車いすをこぐ選手の姿があった。同大学を卒業後、大学の障がい学生支援室の特別助手として働きながら、2020年の東京パラリンピック、陸上競技出場を目指す木下大輔選手だ。木下選手は学生時代、仲間とともに、障がい者がスムーズに飛行機に搭乗できるアプリを開発し、2018年3月、学生ビジネスプランコンテスト「キャンパスベンチャーグランプリ」(日刊工業新聞社主催)で、文部科学大臣賞受賞という、アスリートとしては異色の経歴を持つ。障がいをビジネスにすることのタブーを打ち破り、挑戦し続ける姿を追った。

パラ五輪でメダルを獲り、
宮崎の障がい児たちに選択肢を示したい

中学2年生の時、ふらりと入った図書館で、女性のパラリンピアンが書いた本に衝撃を受けた。「車いすでも海外で戦える世界があるじゃん。オリンピックがあって、メダルを目指せる」。もともとスポーツが大好きで、小学校の頃は車いすに乗りながら、地元の野球チームで健常者と一緒にプレーしていた。メジャーリーガーになりたいと夢を抱き、中学でも野球を続けようとしたが、両親に「障がい児が野球をしても将来の道はないし、周りに迷惑をかけるだけだからやめなさい」と言われ、反発心を募らせていた。「パラリンピックのことは、周りの大人が知らなかっただけ。でも、知らないことで、子どもたちの選択肢が狭まる。将来パラリンピックでメダルを獲って、メディアで取り上げられたら、宮崎の障がい児たちに選択肢を示せる」

その瞬間から「パラリンピックに出場し、メダルを獲得する」ことが、木下少年の夢となった。

しかし、車いす陸上の指導者は近くにおらず、中学、高校と練習は自己流。時折、宮崎県の車椅子陸上チームの練習や合宿に参加することで、研鑽を続け、高校時代に県大会で100mの記録をマークした。大学進学後も陸上部に所属するも、独自のメニューで練習。大学2年時の日本選手権、100mで2位、その後のジャパンパラリンピック大会で3位の成績をおさめ、中国での世界大会に出場。結果は2位だったが、優勝した選手は自分より細く、競技用車いすも古い型を使用していた。「海外ではいったいどんな練習をしてるんだろう? 僕は世界と戦うって言っているのに、世界のことを何も知らんやん」。

海外のトップアスリートの生き方に刺激を受けた
「トビタテ!留学JAPAN 日本代表プログラム

帰国後、大学の国際連携センターへと足を運び、文部科学省が官民協働で取り組む海外留学支援制度、「トビタテ!留学JAPAN 日本代表プログラム」の第1期生を募集していることを知った。先生には強力に勧められたが、不安が先立ち、足踏みし、その1年後、大学4年を迎える春休みに、「行かなければ絶対に後悔する。飛び込んでしまえ」と決断。審査に受かり、201610月~20172月までの5か月間、オーストラリアのニューカッスルに留学、リオパラリンピックのメダリストが在籍するチームに所属した。

多国籍の選手らと練習に励む中で感じたことは、日本と海外とのスポーツに対する向き合い方の違いだった。日本では、ストイックであることが美学のように語られ、身を削るようにして練習に取り組む傾向があると感じていたが、海外の選手たちは、トップの選手ほど、自分を追い込みながらも、競技自体を楽しんでいた。練習は時間より質を重視し、時には1時間で終わることも。また、選手たちは基本的にスポーツだけではなく、それぞれ個人の取り組みをしていた。チームには社会人が多く、企業で企画やマーケティングに携わっている選手、NPO活動や教育に携わっている選手もいた。「アスリートだけでは、社会的に認められない。プラスアルファのことをしなければ、社会に還元できないという空気があった」

障がい者が健常者と対等に交渉をしている姿も何度も目の当たりにした。「できることとできないことをはっきり伝えることで円滑にやりとりし、ビジネスでもお金が回っている。スポーツ以外の場でもトップになれるという姿を見せてもらった」障がいというハンディをはねのけ、活躍する多くの人に刺激を受け、木下選手は車いす陸上からさらに新たな一歩を踏み出す。

後編へつづく

木下 大輔(Daisuke Kishita)(国立大学法人 宮崎大学 障がい学生支援室 特別助手)
陸上競技【T34(脳原性麻痺・車椅子)クラス】選手
1994年宮崎県都城市生まれ。先天性脳性まひによる両下肢不全で、生まれながらにして両足がほとんど動かない。内部障がいもあり、指定難病ヒルシュスプリング病のため、生まれてすぐ大腸のすべてと小腸の半分を摘出。中学2年生の時に、車椅子陸上を始め、宮崎県立高城高等学校時代は、宮崎県大会で100mの記録を残した。宮崎大学工学部時代は、3年時に中国で開催された国際大会で、100m、200mともに2位。大学4年時に文部科学省が展開する「トビタテ!留学JAPAN 日本代表プログラム」の制度を利用し、車いす陸上競技の研鑽のため2016年10月~2017年2月までオーストラリアに留学。帰国後の国際パラ認定大会では2位を獲得した。一方、大学の仲間とともに、学生起業家の登竜門である、学生ビジネスプランコンテストにエントリー。障がい者がスムーズに飛行機に搭乗できるアプリを開発し、全国大会で文部科学大臣賞を受賞した。大学を卒業後、宮崎大学で障がい学生支援室の特別助手を務めながら、2020東京パラリンピック、陸上競技800mでの出場を目指す。

(text: 下西 由紀子 | Yukiko Shimonishi)

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