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“マーダーボール(殺人球技)”のジャンヌ・ダルク。日本代表、史上初の女性選手【倉橋香衣:HEROS】前編

岸 由利子 | Yuriko Kishi

「マーダーボール(殺人球技)」の異名を持つウィルチェアーラグビーは、車いすを激しくぶつけ合い、突き飛ばすこともあれば、吹っ飛ばされることもある凄まじい競技。それでいて、れっきとした男女混合の団体球技だ。昨夏のリオパラリンピックで銅メダルを獲得したウィルチェアーラグビー日本代表は、2020年東京パラリンピックの金メダル獲得をめざして、新たなスタートを切った。そんな中、今年1月、女性としては、史上初となる代表候補に選ばれたのが、倉橋香衣(くらはし・かえ)選手(商船三井)。プレー中も笑顔を絶やさず、生き生きとコートを走る倉橋選手の魅力に迫る。

唯一、本気の激突が許されたパラスポーツ

ウィルチェアーラグビーは、唯一、車いす同士のタックルが認められたパラ競技。通称「ラグ車」と呼ばれる競技用車いすは、敵から引っ掛けられないように、車体の前面をウィングで囲ったハイポインター用と、長い車体に相手の車いすを食い止めるためのバンパーが付いたローポインター用の2種類がある。いずれも、激突に耐えうる強靭な構造だ。ボールを運んで、ゴールへと向かうハイポインターに対し、倉橋選手は、味方のためにディフェンスに徹するローポインターの役割を担っている。

「ウィルチェアーラグビーの一番の見どころは、タックルのぶつかる音や衝撃の迫力。吹っ飛ぶくらい、本気でぶつかり合うことが許されたスポーツって、他にはないと思います。特に外国人選手は、体も大きく、スピードもパワーもあるので、バーンと当たってきますが、それが面白くて。控えめに当たってくる選手もいますが、容赦なく当たってくれた方が、私は楽しいですね。あ、来た来た!みたいな感じで。ぶつかっても、怒られませんし(笑)」

さらに、この競技は男女混成。男性選手と女性選手が同じコートで戦えることも、ウィルチェアーラグビーの魅力のひとつだと倉橋選手は話す。

「まだ本当に怖い目に遭ったことがないからかもしれませんが、怖いと感じることはないですね。転んでも、頭や顔を打つ程度なので、“あ、ちょっと痛いな”と思うくらいで。試合中、ハイポインターたちが、物凄いスピードで走って、ぶつかり合って吹っ飛ぶ時、その振動を感じつつ、“今日も、めっちゃ飛んでるわ~!”とつぶやきながら、次のポジションに移動しています(笑)」

女性初、2020東京パラリンピックの日本代表候補に選ばれたからには、チームに貢献できる強さを鍛えたい

小学1年から高校まで、体操ひと筋の少女時代を過ごしてきた倉橋選手。教師をめざして進学した大学ではトランポリン部に所属し、大学2年の時には、全日本インカレBクラスに出場した。その翌年の春、次のAクラスの出場を目標に公式練習に励んでいた矢先、背中で弾むはずが首から落ちて、頸髄(けいずい)を損傷し、車いす生活になった。

「四肢にまひが残る人ができるスポーツって、本当に少ないんですね。リハビリ中に、陸上や水泳などいくつか体験しましたが、その中でも競技としてやってみたいと思ったのがウィルチェアーラグビーでした。あの激しさに惹かれました」

2013年10月からウィルチェアーラグビーを始め、東京に拠点を置くクラブチーム「BLITZ」でプレーする中、今年1月、2020年東京パラリンピックの日本代表候補に、女子選手として初めて選出された。

「いつかはそこにたどり着きたいと思っていましたが、最初、呼ばれた時は、“なんで、私が?”という感じでした。でも選ばれたからには、もっと上手くなりたいです。私は0.5ですが、実質0なので、それもメリットとして呼ばれた部分は大きいと思います。0.5の男性選手に負けないくらいにならないと意味がないから、本当に頑張らなくちゃダメです」

ウィルチェアーラグビーには、最も軽度な3.5から最も重度な0.5まで、障害のレベルによって異なる7段階の持ち点がある。コートに入る4選手の持ち点は、8.0以内でなければならない。だが、そこに女性選手が加わる場合は、1名につき合計点から0.5マイナスされる。倉橋選手の言う実質0とは、このルールに依るものだ。

3月に、カナダのブリティッシュ・コロンビア州リッチモンド市オリンピックオーバルで開催された「バンクーバー・インビテーショナル・ウィルチェアーラグビー・トーナメント」をはじめ、5月はアメリカ、8月はニュージーランドで開かれた国際大会に出場するなど、今年に入って、海外に行く機会が増えた倉橋選手。アメリカの「トリ・ネーションズ・ウィルチェアーラグビー・インビテーショナル」では、所属する日本代表チームが優勝を果たし、ニュージーランドの世界選手権アジア・オセアニア地区予選では、持ち点「0.5」の最優秀選手に選ばれた。

優勝できて嬉しい気持ちはもちろんありますが、それよりも、色んな経験ができたことが一番大きな収穫でした。試合に出場する度に、新しい何かが見えたり、知れることが楽しかったです。今まで海外旅行に一度も行ったことがなかったので、各国を旅して周るという初めての経験は、スタンプラリーみたいでワクワクしました」 

後編へつづく

倉橋香衣(くらはし・かえ)
1990年、兵庫県神戸市生まれ。小学1年、須磨ジュニア体操クラブで体操を始め、市立須磨高(現・須磨翔風高)まで体操選手として活躍し、文教大進学後はトランポリン部に所属。2011年、全日本選手権に向けた公式練習中に、頸髄損傷し、車いす生活となる。2013年10月よりウィルチェアーラグビーを始め、現在は、埼玉県所沢市に拠点を置くクラブチーム「BLITZ」でプレー。2016年4月に商船三井に入社し、人事部ダイバーシティ・健康経営推進室に所属。2017年、ウィルチェアーラグビー界史上初の女性日本代表候補に選ばれた。

(text: 岸 由利子 | Yuriko Kishi)

(photo: 壬生マリコ)

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ギリギリの闘いを勝ち残れ!不動のアスリート魂で挑む「雪上のF1」【夏目堅司:2018年冬季パラリンピック注目選手】

岸 由利子 | Yuriko Kishi

夏のような晴天に恵まれたある朝、長野県の白馬八方尾根スキー場で、私たち取材スタッフを出迎えてくれたのは、RDS社所属のチェアスキーヤー・夏目堅司さん。タイムの速さを競うダウンヒル(滑降)という種目では、時速120km近いスピードで走ることもあるチェアスキーは、「雪上のF1」の異名を持つハードでスリリングな競技。それとはうらはらに、物腰柔らかな佇まいと、銀世界を明るく照らす太陽のような笑顔が印象的な方でした。ピョンチャンパラリンピックのプレ大会を終えて帰国したばかりの夏目選手に、これまでの軌跡と、現在取り組んでいることやこれからの展望について伺いました。

「もう歩けない」という現実を受け入れて、やれることを頑張りたかった

白馬八方尾根スキースクールで、スキーインストラクターとして活躍し、白馬村で行われるスキー大会では、モーグルの競技委員長も務めていた夏目選手。2004年4月に行われた大会前に、ジャンプ台の感触を確かめようと空中技を試みた時、着地でバランスを崩して背骨を損傷。両足に麻痺が残り、余儀なく車いす生活となるも、リハビリ中にチェアスキーと出会い、その年の冬には、ゲレンデへの復活を果たしました。

「(チェアスキーを)やってみたら?と誘いを受けて、やってみたら面白いなと思って。迷いがなかったわけではありませんが、インストラクターとしての経験を生かすなら、必然的にチェアスキーかなと。もう歩けないということを受け入れるというか、そこに切り替える時間は、早かったのかもしれません。やれることをやっていきたい、頑張りたいと思いました」。

本格的にチェアスキーを始める前には、車いすテニスにもトライし、趣味でスキューバダイビングも始めたのだそう。「やったことはなかったけど、やれることをやってみたかった。足を使わなくても、体は浮くし、手だけで泳げるので、海の中に入った方が自由なんです。近年は競技に専念しているので、少し遠ざかっていますが、以前は、年に1回は潜りに出掛けていましたね」。

遠征費が底をつき、八方塞がりの状態から起死回生

自分の置かれた環境で、できることをやっていくー強い好奇心と勇気から始まったチェアスキーヤーとしての人生。事故の翌年から参戦したレースでは急成長を遂げ、わずか1年でナショナルチーム入りを果たします。IPCワールドカップ(障がい者アルペンスキーワールドカップ)を中心に転戦し、ジャパンパラリンピックでの金メダル獲得も近いと叫ばれる中、2010年のバンクーバーパラリンピック、2014年のソチパラリンピックにもみごと出場。

しかし、その一方では、年間400万円の遠征費を自分で工面しなければならないという大きな課題がありました。「当初は、怪我をした時の保険金でまかなっていましたが、ソチパラリンピックのちょうど一年前に、底をついてしまったんですね。もうどうしようもなくなっていた時に、JOC(日本オリンピック委員会)が主催する“アスリートナビゲーション”を通して、私を雇用したいと言ってくださる企業との出会いがありました」

アスリートナビゲーションは、企業と現役トップアスリートをマッチングするJOCの就職支援制度。その後、所属することになった企業「ジャパンライフ」のバックアップにより、競技に専念することができたそうです。

滑走中の夏目選手。滑ったところには、雪がしぶきのように舞う。

トレーニング&合宿を積む日々。ピョンチャンパラリンピック・プレ大会は、本番前のテストイベント

昨年から今年初頭にかけてのシーズン中、ニュージーランドやチリ、オーストリア、スロベニアなど、世界各地でトレーニングと合宿を繰り返す日々を過ごしてきた夏目選手。その間、2017年1月にはイタリアのタルヴィッシオ、3月には白馬で開催された世界選手権大会に出場したのち、1年後に開幕を控えたピョンチャンパラリンピックのプレ大会にも出場しました。

「プレ大会は、本番と同じ時期に行うテストイベント。ワールドカップの出場資格を持つ人は参加できるという基準になっているはずなので、可能性のある選手は来ていたと思います」。ここでの結果は本大会に影響する?―尋ねると、夏目選手はこう答えてくれました。「もちろん、なくはないでしょうけれど、行くことによって、ある程度の感触やイメージ、あるいは自信など、そういったものは絶対つくと思いますし、本番に向けて、コースを覚えたり、雪質を確認したり、そういった情報を吸収するための貴重な場でもあります。運営側も選手も、みんなテストという感じでした」

シート、サスペンション、フレームで構成されたマシン。先端に短いスキー板の付いた「アウトリガー」を両手に持ち、滑走中のバランスを保つ。

ピョンチャンに向けて、世界にたったひとつの「夏目シート」を開発中

ご覧の通り、チェアスキーの競技用マシンは、1本のスキー板の上にシートを取り付けた特殊な構造。夏目選手によると、シートは、座シートと背シートが一緒になった「一体型」と、別々になった「可動式」の2種類があります。
「当初は、一体型に乗っていましたが、サスペンションがあるので、どうしても体を動かさなくてはいけない。となると、頭も動いてしまうので、前後バランスが非常に取りづらくなります。その点、可動式は、頭の位置を一定にできるので、安定した状態で滑ることができます。今年に入って2ピースの可動式に変えて、今に至ります」

現在、夏目選手が所属するRDS社では、ピョンチャンパラリンピックに向けて、オーダーメイドの可動式シートを開発中なのだそう。座位の姿勢で、膝から下の長さや幅などを測定し、それらに基づいて設計された世界にひとつだけの“夏目シート”がまもなく誕生するのです。

得意種目を伸ばして、メダルを獲りに行きたい

「ソチパラリンピックを終えてから、体幹の強さが足りないと感じていた」と言う夏目選手。「何かいいトレーニング方法はないかと探していましたが、一人では中々厳しいところもあって。そんな時、同じナショナルチームに所属する片足の選手が通うジムを紹介してくれました。かれこれ4年くらい通っていますが、今やっと、その成果が出てきたのかなという感じですね」

ピョンチャンパラリンピックに向けての目標は?と聞くと、こんな答えが返ってきました。「チェアスキーに関しては、日本チーム全体として非常にレベルが高く、メダル獲得を確実視されている選手が3人います。私以外は、みんなメダリストです。彼らが、自分の得意種目でメダルを狙うように、私も、得意種目の“スーパーG”で上げていきたいと思いますが、他の選手たちに追いつけていないのが現状です。でも、ここが上がれば、他の種目もおのずと伸びると思っているので、メダルを取れるようにベストを尽くします」

ちなみに、スーパーGとは、スーパー・ジャイアント・スラロームの略で、スラロームとは「回転」のこと。日本語に直すと、“スーパー大回転”を意味するこの競技は、ダウンヒル(滑降)と大回転の中間にあたる「高速系種目」で、スキー板を滑らせる技術はもちろんのこと、ジャンプや高速連続ターンの技術が求められます。また、現場での事前トレーニングはなく、試合直前の下見だけで本番に臨むという、まさに一本勝負の闘いです。

「今年、43歳。イチロー選手と同い年なんですね。彼とは闘うフィールドも違いますし、とうてい敵いません。でも、この年齢でどこまでいけるのか、チャレンジしていきたいですし、そうすることが同世代の人の励みになれば嬉しいです。おこがましいかもしれないけど、見てくれる人や応援してくれる人に感動や勇気を与えられる存在であるなら、このまま頑張り続けたいです」

テレビの前で全力で応援します!と言うと、「ありがとうございます」と静かに、深く頭を下げてくださった夏目選手。競技の話をする時、優しさの中に鋭く光る眼光が、不動のアスリート魂を物語っていました。パラリンピック出場3回目となる来年のピョンチャン大会。メダルを手にし、笑顔で表彰台に立つ姿が現実になることを願いつつ、これからの動向にも注目していきます。

夏目堅司(Kenji NATSUME)
1974年、長野県生まれ。白馬八方尾根スキースクールでインストラクターとして活躍していたが、2004年にモーグルジャンプの着地時にバランスを崩して脊髄を損傷。車いす生活となるも、リハビリ中にチェアスキーと出会い、その年の冬にはゲレンデへの復帰。翌年、レースを始め急成長、わずか1年でナショナルチームに入り2010年バンクーバー、2014年ソチへの出場を果たした。

(text: 岸 由利子 | Yuriko Kishi)

(photo: 大濱 健太郎 / 井上 塁)

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