対談 CONVERSATION

日本中を踊らせる!? FISHBOYに聞いた、 ダンスで社会課題を解決する方法

長谷川茂雄

2020年8月に日本で発足した世界初のプロダンスリーグ、D.LEAGUE(ディーリーグ/https://home.dleague.co.jp/)をご存知だろうか? 世界中のすべての人に「ダンスがある人生をもたらす」。そんな壮大なスローガンを掲げる同リーグでは、日本を代表する企業がスポンサーとして名を連ね、8〜15名のメンバーから成る11チームが壮絶なパフォーマンスバトルを繰り広げている(現在は、シーズン2の真っ只中)。実は、その中のチームの一つ、“サイバーエージェント レジット”の監督兼ディレクターを務めるFISHBOY氏は、編集長・杉原行里と親交が深い。同氏を招き、改めて今注目されるダンスの魅力と、その先にある“大いなる野望”について、語り尽くしてもらった。

ダンスはお金もかからないし、
モテそうだなと思って始めました(笑)

杉原:今までちゃんと聞いたことがなかったけど、そもそもダンスはいつから始めたのですか?

FISHBOY:しっかりやり始めたのは、まさに思春期の中学2年からですけど、実はその前にちょっとだけカジったことがありまして。小学校2年の時に、父親からムーンウォークを習っていたんですよ。

杉原:それ、面白いですね(笑)。動画とか残ってないんですか?

FISHBOY氏は、普段からビジネス的なアドバイスを杉原に求めることもしばしば。

FISHBOY:残念ながらお見せできないですけど、ムーンウォークは、当時、親の転勤が多かった自分にとっての処世術の一つで。学校でムーンウォークすることで、人気者になれたんです。

杉原:なるほど。それで中学になってから、またダンスをやり始めたのには、何かワケがあったんですか?

FISHBOY:人と違うことがしたくてバンドとかもやっていたんですけど、楽器はお金がかかるし、自分はどうも向いてなさそうだと感じて。そんな時に、デパート街でグルグル回るブレイキン(ブレイクダンスのこと)をやっているお兄さんたちを見て、これだ!と思って。はじめるのにお金もかからないし、モテそうだ!と(笑)。

杉原:今度は処世術ではなくて、手っ取り早かったってことですね(笑)。

FISHBOY:そうです。それで、まずは本屋でダンスの本を探して一生懸命やってみたんですけど、うまくいかなくて。なぜなら、その本はビデオを見ながらやるための解説本だったのに、ビデオが付いてなくて。

杉原:今じゃ考えられない(笑)。

杉原も最新のダンスシーンに興味津々。

ブレイクダンスを習っても
“カサコソ”ばっかりの日々

FISHBOY:本の最後にスクール紹介が載っていたので、地元の練馬区を探したら、日焼けサロンの営業終了後に開校しているところを見つけたんです。親には内緒で、お小遣いがなくなるまで、とりあえず行くことを決めました。

杉原:中学生が自分で貯めたお金で、ダンススクールに通うって、それは凄い。行動力は、他の人より抜きん出ていますよね。

FISHBOY:今考えるとそうかもしれないですね。しかもそのスクールで教えてくれた人は、“ロックステディクルー”っていうNYの有名なブレイキンチームの日本支部に所属している人だったんです。それで喜んで行ってみたら、当時ヒョロヒョロだった僕は、フットワークと呼ばれる地味に足を“カサコソ”する基本動作を「ずっとやっとけ!」と言われて。

杉原:それは、ちょっと辛いですね(笑)。

気になるダンスやステップを動画で見ながら、盛り上がる。

FISHBOY:とっても大事な基礎なんですが、それだけ習ってお小遣いが尽きるのは嫌だったので、公園で“カサコソ”をそれなりに練習して、ある程度できるようにしてからスクールに行ったんですよ。そしたら、ようやくブレイキンっぽいことを教えてもらえて。

杉原:それはよかった(笑)。ついに回るやつをやってみたってことですね。

FISHBOY:でもやってみたら、肩は地面にぶつかるし、頭は痛いし、 “ゴゴゴッ”って頭の中で音が聞こえるし、めちゃくちゃアザもできて。肘をお腹に突き刺すポーズもあったりして、もう痛すぎるってなりまして(笑)。

杉原:やっぱりなかなか難しいんですね、ブレイクダンスは。それでどうしたんですか?

FISHBOY:辞めました。

杉原:ははははは! 辞めちゃったら、全てが終わりじゃないですか。

FISHBOY:一度は離れたんですけど、今度は高校1年の時に、俳優の卵だった友人に「ダンス習いに行かなきゃならないから、一緒に来てくれ」と誘われて。下北沢のスクールに通い始めました。

杉原:そこは、“カサコソ”じゃなかったんだ(笑)。

ダンスに本格的にのめり込み
全国1位、ついには世界の頂点へ

FISHBOY:そうなんですよ。今度は、立ってダンスする方です。結果的に、そこから本格的にダンスにのめり込んでいきました。

杉原:大会に出るようになったってことですね。しかも成績を残し始める。

FISHBOY:そうです。日本選手権みたいな全国規模の大会で最初は5位になって。自分的には満足でしたけど、当時のリーダーが全然納得してなくて。それから深夜まで練習して、朝にちょっと寝て、学校に行くみたいなライフスタイルになりました。その甲斐あって、次のコンテストでは全国1位を取ったんですよ。

杉原:凄い! そうやって成功体験ができてくると、自信が生まれて、さらにのめり込むっていうサイクルになりますよね。結局、世界で1番まで上り詰めるわけだけど、それは何歳の時?

FISHBOY:2009年、23歳の時ですね。大学を卒業した次の年でした。2オン2のスタイルで、今も世界で活躍されているダンサーの先輩と一緒にフランスのパリまで挑戦しに行って。

杉原:その後は、RADIO FISHのブレイクもあったわけだから、若かりし頃に興味を持ったものが点と点でつながって、紡いで行ったら大きな面になったってことですね。昨年からは、D.LEAGUEも始まったけど、今度は、プレイヤーとしてではなく、監督の立場っていうのも興味深いです。

D.LEAGUE発足時のイメージヴィジュアル

FISHBOY:そうですね。もうD.LEAGUEという素晴らしいプロリーグが始まるということを知った時から、プレーヤーよりはマネジャーとして関わりたいと思っていたんですよ。

杉原:それは意外。プレイングマネジャーとかでも良さそうだけど。

FISHBOY:D.LEAGUEのお話をいただいたときに、日本でダンスをもっと根付かせるためには、10〜20代にリーチすべきだと思ったんです。その年代は、自分よりも少しだけ上の世代に憧れを抱いて夢を持つ。だから自分は、18〜24歳の選手たちを輝かせることに徹する方が大切だと考えました。

杉原:それは、新しいヒーローを作るってことですね。ダンスが小学校でも必修化して浸透し始めている中で、FISHBOYがやろうとしている取り組みは、時代の流れより少し先を行ってる気がします。それが成就して、いつかD.LEAGUEから1億円プレーヤーが生まれたりしたら面白いですね。

ダンスは新しいビジネスや雇用、
コミュニケーションを生み出す

“サイバーエージェント レジット”のメンバー。中心にいるのが、監督のF I S H B O Y。

FISHBOY:そういうふうにしたいと思っています。そのためのマネタイズを広げていくために、これからは、スポンサーさんと1対1の関係だけではなくて、自分達のチームが間に入って、別の企業とプロジェクトを繋げていけるような仕組み作りもしていきたいですね。

杉原:それは素晴らしい発想だと思います。あと、サッカーの世界では確立されているホペイロ(用具係)のシステムも作りたいという話もしていましたよね。それもすごくいいアイデア。

FISHBOY:そうなんですよ。サッカーだとスパイクやボールなどギアがいくつもありますが、ダンスの場合はスニーカーが一番重要なギアになります。普段練習に集中していると、ダンサーはそれをケアする余力がないので、管理する人の存在が必要なんです。

杉原:スノーボードやスキーといった冬季スポーツには、ギアにワックスを塗る有能なワックスマンがいるか否かで、パフォーマンスが大きく変わります。やはりギアのお手入れは、絶対に大事なのは間違いないです。

FISHBOY:そこで障がい者や高齢者の雇用を生むというのも、構想として考えています。チームの一員として帯同してもらいながら、自分の磨いたスニーカーを履いたダンサーがステージ上で輝く姿を見れば、きっとやりがいも感じられると思うんです。そして報酬もしっかり確保できれば、社会的マイノリティの方々の雇用問題の解決にもつながるのではないかと。

2020年、D.LEAGUEは、9チームからスタートを切った。

杉原:リーグ戦の会場に、スニーカーを綺麗にしてくれるブースを設けたりしたら、大盛況になりそうですね。そうやって社会課題を解決しながら利益を追いかけていくというのは、時代の潮流にマッチしていると思います。あと、ダンスを通した高年齢の人たちに対する健康促進については、どう考えていますか?

FISHBOY:ダンスって、難易度を人に合わせて自由にいくらでも変えられるのが一番の特徴でもあると思っています。なので、高齢の方に対してもダンスのレベルをパーソナライズして提案できれば、ロコモティブシンドローム(運動器症候群)の悪化を防ぐことにもつながるのではないかと。

杉原:運動がうまくできない人に、トレーニングしなさいっていうのは、間違ったアプローチだけど、ダンスならエンタテインメントの要素があるから、足腰が弱ってきている人たちにも受け入れやすいのは確かだと思います。それに簡単なステップなんかを覚えて、孫に披露できたら、大きなモチベーションにもなりそうですね。

FISHBOY:今、そういう意味では、横浜発祥の“ハマチャチャ”というステップに注目しているんです。ステップの種類が2〜300種類しかなくて、それを自由に組み合わせて、誰でも簡単にオリジナルのステップが作れる。これからの時代のキーポイントになるかもしれません。

杉原:FISHBOYがやりたいことは、もしかしたらダンスというフィルターを通した新しいプラットフォームを作ることなのかもしれないですね。実際のところ、自分にとってダンスとはなんだと思いますか?

FISHBOY:一言で表すのは難しいですが、ダンスは“言葉”ですね。これからの時代は、国や年齢を超えて人と人を繋ぐ新しい語学になるんじゃないかと。なくてはならない大切なコミュニケーションツールだと思います。

FISHBOY(フィッシュボーイ)
1985年、大阪生まれ。幼少時代は山口で過ごし、小学6年生の時に東京・練馬へと移住する。初めてのダンス体験は、小学2年時に父親から教えてもらった“ムーンウォーク”。中学3年でストリートダンスを始めると頭角を表し、高校1年時に結成したチームblack D.O.G.Sで、高校生全国大会「DANCEATTACK」で優勝(2003年)。青山学院大学経営学部へ進学後も大学全国大会「BIGBANG!!!」などで優勝を飾り、卒業後、2009年にはフランス・パリで開催された世界大会「JUSTE DEBOUT」にて優勝を果たす。2014年、実兄の中田敦彦とその相方である藤森慎吾(ともにオリエンタルラジオ)らとRADIO FISHを結成。2016年にシングル『PERFECT HUMAN』が大ブレイクし、同年、第67回NHK紅白歌合戦に出場。2020年、D.LEAGUEのチーム、“サイバーエージェント レジット”のディレクターに就任。自らのダンサー活動と並行しながら、日々、同リーグとダンスの普及に全力を注いでいる。

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(text: 長谷川茂雄)

(photo: 壬生マリコ)

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車いすバスケのレジェンド、根木慎志が描くパラスポーツの未来 前編

岸 由利子 | Yuriko Kishi

2000年シドニーパラリンピック男子車いすバスケットボール日本代表チームのキャプテンを務めるなど、トップアスリートとして活躍したのち、パラスポーツを主軸とするスポーツの面白さや楽しさを伝播するために、全国各地の小・中・高や、イギリス、ブラジルの学校など、計2,600校にも及ぶ学校を訪れ、のべ80万人の子どもたちに向けて、講演活動や体験会を行ってきた根木慎志氏。現在、プロジェクトディレクターとして携わる日本財団パラリンピックサポートセンター推進戦略部「あすチャレ!」での活動をはじめ、四半世紀以上に渡り、力を注いできたパラスポーツの普及活動の先にどんな未来を見つめているのか。根木氏と出会ったその日から、“あ・うんの呼吸”で意気投合し、親交を深めてきたHERO X編集長の杉原行里(あんり)が話を伺った。

スポーツは、勝ちに行くから面白い

杉原行里(以下、杉原):前回は、X-Challengehttp://hero-x.jp/movie/1335/にご登場いただき、ありがとうございました。学生時代の部活に戻ったみたいで、めちゃくちゃ楽しかったです。特に、車いすバスケ用の車いすでコートをひたすら走り続けた“恐怖の20分間走”は、思い出深いです(笑)。僕たちのチームのペナルティだったにも関わらず、根木さんも一緒に走ってくださって。コーチやキャプテンに愛情をもってしごかれている部員の気持ちでした。

根木慎志氏(以下、根木):僕も、あんなにガッツリ走ったの、どれぐらいぶりやろ(笑)。現役の時のスピードでは走れてないけど、今の自分が持ってる最大限の力で、最高に楽しんで走れたから、ある意味、全力で走れたんとちゃうかな。

杉原:あの後、プライベートでも、体育館を貸し切って、車いすバスケ大会をやりましたよね。バスケットボールの経験者は、数名いましたが、車いすバスケに関しては、根木さん以外、全員素人。企業の社長さん、元プロ野球選手や芸人さん、RDSのスタッフなど、総勢30人が集まり、6チームに分かれて競い合いました。

根木:あれは、面白かったよね。バスケの経験がある人たちは、基本的なことを分かっているし、スクリーンプレーで、ちょっとレクチャーしただけで、ルールもすぐに飲み込めていたし、実際、プレーも上手いし、さすがやなぁという感じでした。賞品がかかってたから、芸人チームは、ちょっと違うテンションで頑張ってたみたいやけど(笑)。

杉原:あのレクチャーのおかげで、僕ら、初戦敗退ですよ(笑)。

根木:いきなりゲームやったから、余計に面白かったよね。勝負やから、みんな真剣になるし、“勝ちに行く”というスポーツの楽しさがあった。でも、実際、あの大会に集まった人たちの大半は、“車いすバスケ? よう分からんけど、なんかオモロそうやし、行ってみよか?”という感じで、多分、分からないながらも、とにかく来てみたっていう感じやったんやと思う。

杉原:でも、いざ始めると、みんなが熱くなった。キャラクターも特技も戦略も、みんなが違っていて、面白かったですよね。

根木:“トランプ大会しようぜ!”では、あの盛り上がりはなかったよね、きっと。車いすバスケを知らなくても、バスケと言うと、イメージが湧きやすいと思うし、見たことも触ったこともないものに対して、人間は、おのずと興味を持つ生き物やし。だからこそ、あれほど熱くなれたんとちがうかな。

杉原:言うまでもないことですが、当然ながら、根木さんは、他の人たちとは全く動きが違う。根木さんが、あるチームのメンバーに入ることが決まった時、“超ズルいよ~。何なんだよ~”って声が上がりましたけど、僕は、あの感覚こそが、今後、車いすバスケというスポーツを普及させていく上で、ひとつのブレークスルーになるんじゃないかなって思いました。20代~40代の大人たちが真剣に勝ち負けを競う中、車いすは、補助的なツールとしてではなく、このスポーツにエントリーするためのギアとしてあるわけで。

根木:“ズルい”とかいう発想、いいよね。面白いよね(笑)。

子どもも熱くなる。
想像を超えた車いすバスケの面白さ

杉原:今後、この大会というか、ストリートバスケ的な動きをもっと広げていこうと、根木さんとアイデアを企てているわけですが、第2回、第3回と進めていく時、一般ユーザーが欲しいと思えるような車いす(競技用マシン)を作っていきたいなと思っていて。繰り返しますが、身体能力を補助するツールとしてではなく、拡張するためのカッコいいモビリティとしての車いす。それを作っていきたいなと。

根木:クルクル回ったり、明らかに普通とは違う動きができるのは、補助的な道具として使われてきた競技用車いすがあるから。それは間違いないことやけど、これから僕らがやろうとしていることって、どちらかと言うと、「人間ってこんなこともできるんだ」っていう、おそらく想像を超えたところにある車いすバスケの面白さをプレイヤーには体感してもらい、見る人に感じてもらうことやったりするよね。それをみんなで楽しむという。だから、何かこう、競技用車いすも、突き抜けてる感じのものができたらいいよね。

今日も、豊島区の小学校で体験会をやってきたんやけど、ミニバスケットボールで、大活躍している子がいました。でも、初体験の車いすバスケでは、なかなか、思うように動けなかったみたいで、「カッ!」と声を上げたりしながら、奮闘してて。終わった後に感想を聞くと、「すごく難しかったけど、ミニバスにはない面白さがあった。したことのない動きができるのが、面白くて仕方がなかった」と。

杉原:「あすチャレ!School」をはじめ、根木さんが取り組まれていることって、障がい者を支援するということではなく、子どもたちを含む参加者の人に、車いすバスケを体験してもらうことで、結果として、このスポーツを普及させていくということであり、その大きなきっかけのひとつになろうとしているのが、おそらく東京2020ですよね。「開催が決まったことで、出会う人が格段に増えて、自分が表に出ていく機会も増えた。このチャンスをしっかり活かしていきたい」とおっしゃっていたことが、僕の中で印象に残っています。ブレることなく、邁進されていて、すごいなと思いました。

子どもたちに伝えたいのは、
「友だちになろう」

根木:東京2020がひとつの大きなきっかけになって、パラスポーツやパラリンピックが知られるようになってから、驚くほどのスピードで、日に日に、ステージが変わってます。最初は、それらの言葉を知ってもらうことからのスタートやったのが、今ではほとんどの人が知るようになった。車いすバスケも、飛躍的に知ってもらえるようになった。じゃあ、次に何をするべきかというと、僕ができることのひとつは、これまで以上に、自分が伝えられるメッセージをしっかりと伝えていくこと。それをひと言に集約するなら、「友だちになろう」です。

この30年近く、全国各地の小・中・高の学校で講演や体験会をして、たくさんの子どもたちと触れ合って、「友だちづくり」をしてきたけど、言ってることは、今も昔も、一貫して変わってません。

今日の体験会は、300人くらいの子どもたちがいたんかな。隣同士、みんな友だちやんなぁって。でも、友達やからといって、顔形や髪型や着てる服が同じかといったら、みんなそれぞれ違うわけじゃないですか。考え方も、まったく一緒なんて、絶対ないから。でも、相手のことを自分ごととして考える、相手の気持ちを分かろうとすることで、その人と自分が違うということも理解できるようになる。それが、人を認めるっていうことやと思うので。そして、相手を認めることによって、どんどん違いが分かってくるから、逆に、自分のことをより深く知れるようになる。

僕は、事故に遭って、車いすになって、もう大好きなスポーツが出来へんわっていう時に、車いすバスケに出会ったんやけど、実際にやってみた時に、「コレ、ヤバイな、すげぇな!」って思って。今まで経験したことのないようなスピード感もそうやし、さっき話した、「人間って、こんなことも出来るんや!」という、上手い選手のプレーを見た時に垣間見た、人間の可能性。そういったことを子どもたちに実演して見せたり、話したりすることによって、僕自身も、自分のことを一番知れたんとちゃうかなって思いますよね。

中編へつづく

根木慎志(Shinji Negi)
1964年9月28日、岡山県生まれ。シドニーパラリンピック車いすバスケットボール元日本代表チームキャプテン。現在は、アスリートネットワーク副理事長、日本パラリンピック委員会運営委員、日本パラリンピアンズ協会副理事長、Adapted Sports.com 代表を務める。2015年5月、2020年東京パラリンピック大会の成功とパラスポーツの振興を目的として設立された日本財団パラリンピックサポートセンターで、推進戦略部「あすチャレ!」プロジェクトディレクターに就任。小・中・高等学校などに向けて講演活動を行うなど、現役時代から四半世紀にわたり、パラスポーツの普及や理解促進に取り組んでいる。

(text: 岸 由利子 | Yuriko Kishi)

(photo: 壬生マリコ)

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