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パラの二刀流選手。山本篤が攻めるギリギリのラインとは?【HEROS】前編

岸 由利子 | Yuriko Kishi

2008年北京パラリンピックの走り幅跳びで銀メダルを獲得し、日本の義足陸上選手初のパラリンピック・メダリストとなった山本篤選手。以来、IPC陸上競技世界選手権大会走り幅跳び金メダルの2連覇(2013年、2015年)、アジアパラ競技大会 100m 金メダルの2連覇(2010年、2014年)を達成し、16年日本パラ陸上競技選手権大会で、6m56の跳躍で世界新記録を樹立したほか、16年リオ大会の走り幅跳びで銀メダル、アンカーを務めた4×100mリレーで銅メダルを獲得するなど、名実ともにパラ陸上のトップランナーとして活躍してきた。だが、かねてからの夢だったスノーボードでピョンチャン大会を目指すにあたって、「迷惑はかけたくない」とスズキ浜松ACを運営するスズキを自ら退社し、17年10月1日には、新日本住設とスポンサー契約を結び、プロ転向を発表。初参戦にして、 スノーボード日本代表に選ばれ、ピョンチャン大会への出場をみごとに果たした。飽くなき野望を抱き、挑戦し続ける山本選手のパワーの源とは?東京2020に向けた目標や義足開発のこだわりなど、多彩なテーマについて話を伺った。

スノーボードは、僕の原点

日本のパラ陸上のエースである山本選手が、「スノーボードで2018年のピョンチャン大会を目指す」と発表した時、驚いた人も多いのではないだろうか?陸上が夏季競技であるのに対し、スノーボードは冬季競技で、大会開催の季節も、いわば真逆。当然ながら、競技の種類もルールも全てが違う。なぜ、スノーボードなのか?

「義足になってから、最初にやったスポーツがスノーボードでした。もし、スノーボードが正式競技なら、パラリンピックに出場できるし、勝てるんじゃないかと勝手に思っていました。でも、僕が義足になった2000年頃は、正式競技ではなかった。冬はスノーボードをやるけど、夏に何かできるスポーツはないかなと思った時に出会ったのが、陸上でした。ひとりで出来るし、義足がカッコよかった。それで、競技用の義足を履いて、陸上競技を始めるようになったんです」

冒頭でも述べた通り、北京大会での銀メダル獲得を皮切りに、日本の義足アスリートの第一人者として、次々と実績を積み上げていった。転機が訪れたのは、走り幅跳びで銀メダル、4×100mリレーで銅メダルを獲得した16年リオ大会が閉幕を迎えた頃のこと。

「スノーボードをしたいという気持ちが出てきました。僕の主軸である陸上競技では、リオで2個のメダルを獲ることができたし、ある程度、区切りがついたかなというところで、やるなら、チャンスは今しかないと思いました。どうすればピョンチャン大会に出場できるのか、所属のことなども含めて、色々と課題はありましたが、やりたい気持ちの方が強かった。だから、やると決めました」

情熱の人、山本選手はすぐさま行動に移していった。銀メダルを獲得した2017年7月の世界パラ陸上競技選手権大会以降は、スノーボードのトレーニングを中心とした生活にシフトし、同年9月末には、本格的にピョンチャンを目指すため、所属のスズキを自ら退社。そして、10月1日より、競技に集中するべく、新日本住設と20年末までのプロ契約を結ぶというパラアスリートとしては稀有な決断をするに至った。

フィンランド、カナダなど、ワールドカップを転戦するも、惜しくも、結果振るわず、2つの代表枠に入ることはできなかったが、ピョンチャン大会が迫る18年2月10日、スノーボード日本代表の招待枠に追加された。2017年9月、ニュージーランド・トレブルコーンで開催されたワールドカップで、初出場にして、6位入賞した実績を日本障害者スキー連盟が推薦し、それを世界パラスノーボードが認めたことに依る。

ギリギリのラインまで追い込んでこそ、成長できる

次なる標的は、東京2020。山本選手は、自分の体の一部となる競技用義足についてこう話す。

「こだわればこだわるほど、面白いです。義足の膝のパーツと、義足とブレードをつなげるパーツは、埼玉県にある名取製作所にご協力いただき、オリジナルで研究開発しています。有り難いことに、社長さんが、僕の意見をすべて反映してくださいます。“極限で戦う人と一緒にものづくりをして、世界を目指せるのはすごく嬉しいことだから、無理難題をたくさん言ってください”と。

その一方、技術者の方たちは、壊れないかとひやひやして、相当悩んでいらっしゃると思います。一度、皆さんの目の前で壊れたことがあるので、余計に。だから、僕は言うんです。“壊れたら壊れたで、そこが限界値で、僕もあきらめがつくけど、壊れてもないのに、限界を決めると、あきらめがつきません。だから、やってみてください。壊れても、僕はそれほど怪我をしないので大丈夫です”と」

山本選手が世界記録を樹立した時に履いていた競技用義足。

16年5月1日の日本パラ陸上競技選手権大会で、世界記録を3cm上回る6m56で、世界新記録を樹立した際、山本選手が履いていたのは、それまで使用していたものより、150gの軽量化に成功した競技用義足。パーツの重量を軽くすると、その分、変形しやすくなり、応力が集中すると、壊れやすくもなる。そのリスクを踏まえながら、技術者たちは、山本選手の要望を極限まで追求した。その結果、記録は、なんと約20センチ伸び、自身初の世界新記録を打ち立てるに至った。

だが、山本選手はそこで満足しなかった。より軽いものを求めて、さらに50gの軽量化を図ったのだ。

「負荷がかかりすぎて、ネジが飛びました。パーツが壊れたのではなく、限界値を超えて、割れたんです。その後は、ネジ自体も、より強いものに変えるなど、改良を加えていただきました。怪我するかしないかのところまで、追い込まないとダメなんですよ。怪我をしないギリギリのラインが、自分が成長できるラインなんです、多分。普通に走っていてもそうだと思います。肉離れするか、しないか。多分、これ以上やると、肉離れするかもしれないけど、そこまでやらないと、限界値に追い込めない。中途半端な状態で、練習していたら成長できないけれど、ギリギリのラインを攻めれば、成長できる。義足のパーツも同じだと僕は思います」

走り幅跳びの選手を前方から見ると、踏み切る際、義足が開いていることが分かる。これについても、「角度が開きすぎているから、少しまっすぐにしたい」とリクエストし、外側に2~3度振る、5~10ミリ横にずらすなど、細かい改良を加えてきた。全ては、より遠くに跳ぶため、パフォーマンス力を上げるためのこだわりだ。

より速く走り、より遠く跳ぶために。
生体工学のデータは、新たな発想を生むために使う

2010年代以降、テクノロジーによる競技用義足の進化は目覚ましい。アスリートたちが、パフォーマンス力を最大限に発揮することを目指して、各競技専用の義足が開発されるようになり、膝のパーツなど、義足の不可欠な部品も、スポーツに特化して開発されるなど、より精緻なイノベーションが次々と生まれている。その逆に、アスリート側はどうなのか。山本選手は、テクノロジーをどのように競技に活用しているのだろうか。

「基本的には、自分がどう走ったり、跳んだりしているかを分析している感じですね。こんな風にしたら速くなるかも、こんな感覚で跳べば、より遠くに跳べるかもというのは、想像でしかないので、客観的なデータを基に新しい思考を生ませるというか。それらのデータからイメージして、次の試合や練習の時に活用するっていうのが僕のやり方ですね」

「研究というものは、基本的に、過去のものでしかなくて、僕の分野のバイオニクス(生体工学)では、未来を作る研究はないんです。例えば、トップ選手と自分を比べて何が違うのかは分かりますが、ある程度、トレーニングをやり切って、自分の形ができている状態で、仮に、その選手と同じことをして、記録が伸びるかといったら、それは中々きびしいと思います。新たな発想を自ら生んでいかないと強くはなれないので」

後編へつづく


山本篤(Atsushi Yamamoto)
1982年静岡県掛川市生まれ。高校2年の時のバイク事故で左大腿部から下を切断。高校卒業後に陸上を始め、パラリンピックは08年北京から3大会連続出場。北京大会の陸上男子走り幅跳び(切断などT42)で銀メダルを獲得し、日本の義足陸上競技選手初のパラリンピック・メダリストとなった。16年リオ大会では同種目で銀メダル、陸上男子400メートルリレー(切断など)で銅メダルを獲得。スノーボードのバンクドスラロームとスノーボードクロスで18年ピョンチャン大会を目指し、17年9月末にスズキ浜松アスリートクラブを運営するスズキを退社。同年10月より新日本住設とスポンサー契約を結び、プロ選手に転身。18年2月9日、国際パラリンピック委員会(IPC)からピョンチャン大会のスノーボード日本代表の招待枠に追加され、夏冬両大会への出場を果たした。

(text: 岸 由利子 | Yuriko Kishi)

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監修は、蜷川実花。パラスポーツと未来を突き動かすグラフィックマガジン『GO Journal』創刊!

岸 由利子 | Yuriko Kishi

パラスポーツの興奮とパラアスリートたちの息づかい、それらを取り巻くカルチャーとの交錯点を伝える新グラフィックマガジン『GO Journal(ゴー ジャーナル)』が11月22日創刊された。クリエイティヴ・ディレクターを務める蜷川実花氏をはじめ、記念すべき1号の表紙を飾るリオパラリンピック銅メダリストの辻沙絵選手(陸上女子400メートル)や、モデルとなったボッチャ日本代表の高橋和樹選手などが集まり、銀座蔦屋書店で記者発表会を行った。

パラスポーツがもっと好きになる、パラアスリートをもっと応援したくなる。興奮と魅力が詰まった斬新なグラフィックマガジン

日本財団パラリンピックサポートセンター(以下、パラサポ)の発案により刊行された『GO Journal』は、かつてないクールでホットな切り口で、パラスポーツの興奮とパラアスリートたちの魅力を発信するフリーマガジン。美しい写真に加えて、アスリートのインタビューなどが掲載された1号は全64ページ、A3サイズのタブロイド版、オールカラー印刷。「本当に無料?」と聞きたくなるほど、写真集のような上質な仕上がりだ。銀座店をはじめ、代官山、中目黒、京都岡崎、梅田など、全国の蔦屋書店で配布されるほか、日本財団が助成する多言語発信サイト「nippon.com」では、中国語、フランス語、スペイン語など7言語に翻訳され、世界に向けて発信する。

パラスポーツ観戦のボトルネックとなっているのは、「なじみが薄くてよく分からない」、「障がい者はかわいそう」といった先入観や認識。『GO Journal』が目指すのは、それらを揺さぶり、転覆させ、2020年以降のインクルーシブ社会の発展に向けて、一人一人の行動を喚起するための“トリガー”になること。

©大谷 宗平(ナカサアンドパートナーズ)

この日は、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長森喜朗氏と共に、東京オリンピック・パラリンピック担当大臣・鈴木俊一氏も創刊のお祝いに駆けつけた。

「夏季パラリンピック大会が同一都市で二度行われるのは、東京が(世界で)初めて。パラリンピック大会の成功なしに、東京大会の成功とは言えない。国民の関心はオリンピックに偏りがちで、パラスポーツやその最高峰であるパラリンピックに対する理解がまだまだ少ない。このグラフィックマガジンには、一般の方がおそらくイメージするのとは違うパラアスリートの一面が映っている。それらを見てもらうことが、理解の増進にも繋がると思う」と話し、『GO Journal』の今後の発展に期待を寄せた。

トップアスリート×蜷川実花が魅せる、美しきパラスポーツの世界

次に、監修を務めた蜷川実花氏と辻沙絵選手のトークショーが行われた。
「なんだろう、これ?というある種の違和感からでもいい。パラスポーツに興味のない方を含めて、少しでも多くの方に手にとってもらいたい。そこから(パラスポーツに対する興味が)広がっていくようなきっかけになるといいなと思って作りました」と、冒頭でマガジンに込めた想いを語った蜷川氏。

最先端のファッションをみごとに着こなし、創刊号の表紙と巻頭グラビアを飾った選手との出会いのきっかけは、なんと“ナンパ”。昨年、リオパラリンピックの開会式に向かう蜷川氏が、リオの空港で見かけた選手に「一目惚れ」した。

「可愛らしく、華やかな外見だけでなく、内面から輝く力強さを感じ、どうしてもこの人を撮ってみたいという写真家の欲が走りました(笑)。撮らせて欲しいと約束をして、次に会ったのは、GO Journalの撮影当日でした」と蜷川氏は振り返る。声をかけられて、びっくりしたという選手は、「ファッション誌のような撮影は初めてだったので、不安もありましたが、撮影現場はナチュラルな雰囲気で、実花さんやスタッフの方たちが、ありのままの私を引き出してくれました。もう一回やりたいくらい、楽しい撮影でした」と笑顔いっぱいで語った。

選手のお気に入りは、表紙の写真。「目の前に金メダルがあると思って、睨んで」といわれた時の表情には、「ファッションと競技中の私、そして実花さんの世界観の全てが混ざり合っている」と熱のこもった声で話す。

蜷川氏は、当初、義手をどう見せるかなど、細かいバランスを考えていたが、撮影を進める中、片手があるかないかは、もはや関係のない域に達したという。

「何気ない時に、『私、ただ片手がないだけなんですよ』と選手に言われたのが心地良い衝撃でした。この感覚をもっと多くの人と共有していきたいと思いました。フリーマガジンの形に出来て良かったです。アスリートたちは、自分と戦ってきた圧倒的なパワーがにじみ出ている。とにかくカッコよかった!」

選手の内面から輝く強さが覗えたのは、「普段から義手を付けているか」という質問が上がった時。

「私は、生まれてからずっとこの状態で生きてきて、髪を縛ったり、靴ひもを結んだりしています。この状態だからできるんです。嘘の手をつけても何も変わらないし、私は私だし、ありのままの自分を受け入れてもらった方が良いので、変える気もないです」

「GO Journalを見て、パラスポーツやパラアスリートのイメージが、ガラッと変わったと言ってくれる人が多かったです。健常者と障がい者という区別のない、共生する社会に繋げていけたらいいなと思います」と選手は締めくくった。

トークセッションの後、リオパラリンピック日本代表・高橋和樹選手も登壇し、ボッチャの実演が行われた。この競技が初めてという蜷川氏のボールは、ステージから飛び出すほど勢い良く転がった一方、ボールを触ったことがある選手は、片手にマイクを持ったまま、しなやかなフォームで投球を決めた。

次に、最も障がいの重いクラスの勾配具“ランプ”を使って、みごとな投球のデモンストレーションを披露した高橋選手。この日、初めて組んだ競技アシスタントに、ランプの設置角度や位置を細かく指示を出し、目標球にボールをぴたりと当てた。

11月29日で、東京パラリンピックまであと1000日のカウントダウンが始まった。「感無量だけど、ここがスタート」と話す蜷川氏が監修する『GO Journal』は、毎年2回発行予定。見たことのないクールなアスリートの魅力にぜひ触れてみて欲しい。

(text: 岸 由利子 | Yuriko Kishi)

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