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命知らずのライダーが、命がけでつくった伝説【ブルース・クック】

岸 由利子 | Yuriko Kishi

FMX(フリースタイルモトクロスバイク)の世界で、『生きる伝説』として名高いブルース・クック。世界中で熱狂の渦を巻き起こし、観衆を魅了し続ける前代未聞のFMXライダー。彼について、こう説明することもできますが、超絶ドラマティックなその人生を語るには、あまりにも言葉が足りません。生きる伝説と呼ばれる理由とは、一体何なのか?ブルース・クックを知るうえで、ひとつめのキーポイントになるのは、「ナイトロ・サーカス」。まずは、このお話から始めましょう。

命知らずのライダーが、命がけで挑んだ世界初のトリック

ナイトロ・サーカスは、FMX、BMX(バイシクルモトクロス)やインラインスケートなどの世界トップクラスの選手たちによるアメリカ生まれのアクション&スポーツ エンターテイメント・ショー。2009年にMTVのリアリティ番組としてスタートしましたが、グランドキャニオンからバイクでダイブするなど、常軌を逸した過激なスタントに涼しい顔で挑む選手たちの姿が人気を呼び、2010年からワールドツアーでライブを開始し、イギリス、オーストラリアやドバイなど、26カ国160都市で300万人を動員。2015年には日本初となる上陸を果たし、大きな話題を呼びました。

バイクに夢中の少年時代を過ごしたブルース・クックは、2005年、念願のプロライダーの道に転向し、北米全土のショーや国内の大会への参戦をスタート。“命知らずのライダー”として着実に知名度を上げていき、2012年、エクストリーム・スポーツの世界的競技大会「Xゲームズ」でデビュー。その後、ナイトロ・サーカスに初出演して以来、人気選手の一人として活躍していました。

2014年1月3日、カナダのオンタリオ州ハミルトンで開催されたナイトロ・サーカスでは、ダブル・フロント・フリップ(前方2回宙返り)に挑み、世界初の記録を打ち立てるはずでした。ところが、本番で着地に失敗。一命は取りとめたものの、脊椎損傷により下半身不随の体に。

彼のライダー生命は絶たれてしまった。あの華麗なパフォーマンスをもう二度拝むことはできないー将来を嘱望されていた選手の予期せぬ事故に、世界中のファンたちは悲嘆に暮れました。

ただでさえ危険な印象の強かったナイトロ・サーカスのスタントショー。カナダ全土のメディアで大きく報道された彼の事故は、その印象を増幅させてしまったーそのことを知ったブルース・クックは立ち上がります。「今回の事故で傷ついたのは自分だけではない。だからこそ、同じ競技を愛する仲間の笑顔を消してはいけない」と。

不屈の精神で、大事故から華麗にカムバック

もう一つ、ブルース・クックの背中を押したのは、ナイトロ・サーカスのリーダーであり、事故の起きた“ランプ”(ジャンプ台)を開発したトラヴィス・パストラーナの存在でした。事故に対する責任を感じて、意気消沈したトラヴィスの姿を見て、「これ以上、落ち込んで欲しくない」と思い、事故からわずか10日でリハビリを開始し、3ヶ月後には再びバイクに乗ることを決意します。

その後、半年をかけて、背中と膝を固定させるための器具を取り付けるなどして、バイクを彼の体に合わせて改造し、事故から10ヶ月後には運転の練習を再開。モトクロスバイクを乗り回す姿を動画で披露して、世間を驚かせました。

下半身不随の体は、ふんばりなどのコントロールが全く効かないため、ジャンプなどの技は不可能に近いとされていましたが、決してあきらめなかったブルース・クック。不屈の精神で練習を重ねた結果、大事故から1年9ヶ月後の2015年10月14日、カナダのオンタリオ州トロントで開催されたナイトロ・サーカスで、大喝采が湧き起こる中、バック・フリップ(後方1回宙返り)を決めて、みごと復帰を果たしたのです。

絶え間ないチャレンジと努力で、不可能を可能に変えていく

今年2月19日、東京ドームで開催された「ナイトロ・サーカス10周年ワールドツアー」でも、磨き抜かれたバック・フリップを披露しました。この日、筆者は、ブルース・クックのパフォーマンスを初めて間近に見たのですが、車いすに乗り、舞台に登場した彼の穏やかでリラックスした印象から一転、モトクロスバイクにまたがり、ハンドルを握ったとたん、緊迫した会場の空気に火を点けるかのように、彼の全身からは、熱くほとばしるエネルギーが感じられました。

何事においても、「これくらいが自分の限界だろう」と折り合いをつけて、ピリオドを打つことは、ある意味で自分を守るためには必要な行為。しかし、それは自分の可能性を狭めることも意味します。ブルース・クックの素晴らしさは、それを決して自分に許さず、未だ見ぬ未来への希望を胸に、不可能を可能に変えていくべく、チャレンジと努力を続けていること。

事故に遭う以前は、「自分のために競技を続けてきた」というブルース・クックですが、今、彼の闘志を突き動かすのは、仲間や観客たちの存在。サポートしてくれる誰か、応援してくれる誰かがいるからこそ、走り続ける。その人たちのために走り続けるー彼が生きる伝説と評される真髄は、ここにあります。伝説のアップデートに、乞うご期待ください。

ブルース・クック 公式サイト
https://www.brucecook.ca/

(text: 岸 由利子 | Yuriko Kishi)

(photo: 長尾真志 | Masashi Nagao)

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車いすの女王 土田和歌子。驚きのトライアスロン転向宣言までの舞台裏【HEROS】前編

岸 由利子 | Yuriko Kishi

アイススレッジスピードレースと車いす陸上競技で、通算パラリンピック7大会に出場し、計7個のメダルを獲得。日本人として初めて夏季と冬季の両大会で金メダリストに輝くなど、四半世紀に渡るパラアスリート人生を最前線で走り続け、数々の伝説を残してきた車いすアスリート・土田和歌子選手。2016年リオ大会の女子マラソン(車いすT54)では、惜しくも、トップとわずか1秒差で4位に終わったが、その後、わずか3ヶ月の競技歴で初参戦したASTCパラトライアスロンアジア選手権(フィリピン)で優勝し、2017世界パラトライアスロンシリーズ横浜大会(女子PTWC)の出場権を得て優勝という新天地での快挙を成し遂げたのち、今年1月、トライアスロンへの転向を発表した。車いすマラソン女子の第一人者のこれまでとこれからを探るべく、土田選手に話を伺った。

パラリンピック後の1年は、
クロストレーニングを重視した挑戦の年

卓越した身体能力と強靭なメンタルを併せ持つトップアスリートがしのぎを削るパラリンピックは、微差が勝敗を分かつ過酷な世界。2016年リオ大会の女子マラソン(車いすT54)では、金メダルが期待された土田選手を含む上位7人の接戦が41km付近まで続いた末、残り1kmで全員がラストスパートをかけて競り合った。

「1位と1秒差の4位という結果に悔しい想いはありました。金メダルは獲れなかったけれど、これまで自分が取り組んできたことの成果として一つ収められたかなと思います。悔しい中でも満足のできるレースでした」

今年、競技生活25年目を迎えた土田選手。パラリンピックを終えた後の一年間はいつも、クロストレーニングを重視した毎日を過ごすのだという。

「私は、この一年間をすごく大事にしています。車いす陸上とは違うところで身体的な域を広げていくためにも、さまざまな競技をやっていくことで備わると思っていて、ロンドン大会の後も、ボクササイズやボルダリングなど、未経験の競技に取り組んできました。リオ大会後の一年も、色々とやってみようという挑戦の年でした」

治療がきっかけで見つけた、
トライアスロンという新たな光

リオ大会での雪辱を果たすべく、土田選手が挑んだのは、同年11月に開催された世界6大マラソンの一つであるニューヨークシティマラソン。ボストン・マラソン(車いすの部)を5連覇、東京マラソン(女子車いすの部)を9連覇し、2010年にはロンドンマラソン、ベルリンマラソンの両大会で優勝、2013年大分国際車いすマラソンでは、1時間38分07秒を記録し、世界記録を更新。2016年ホノルルマラソン(車いす部門女子の部)で10度目の優勝を収めるなど、輝かしい成績を残してきた土田選手だが、ニューヨークシティマラソンでは24km付近で無念の棄権となった。激しい運動が原因で起こる運動誘発喘息を発症していたのだ。

「帰国後にかかった医師からは、自分の状態と向き合いながら競技を続けることはできると前向きな診断をいただきました。“治療にも、体づくりのためにも、効果的だから、やってみては?”と薦めを受けて、12月頃から水泳を始めました。せっかくならスキルも磨きたいと思い、スイムスクールに通い始めたのと同時期に、ハンドサイクルもクロストレーニングの一つに取り入れました。そしてふと気づけば、トライアスロンができる条件が自然に整っていたんです。これもまた、私にとって未知の競技でしたが、治療がきっかけとなり、新たな目標ができました」

パラトライアスロンは、スイム(0.75km)、バイク(20km)、ラン(5km)の3種目を組み合わせた複合競技。車いす、切断、視覚障がいなどの選手が、障がいの種類と程度によって分けられたカテゴリーごと、男女別に順位を競い合う。ハンドサイクルとは、手でペダルを漕ぐ自転車のことで、車いす選手がバイク競技で使うもの。ランでは、土田選手が陸上競技で20年以上専門としてきた車いすレーサーを使用する。

世界トライアスロンシリーズに
初参戦で優勝するも、
「ここからが本当のスタート」

年が明けて、2017年2月、トライアスロンの本格的なトレーニングが始まった。競技歴わずか3ヶ月にして、4月末にはフィリピンのスービックベイで開催された「ASTCパラトライアスロンアジア選手権」に初参戦して優勝し、5月の「世界パラトライアスロンシリーズ横浜大会」の出場権を得た。2位との差が1分以上という快走で、女子PTHCクラスを1時間15分11秒で制し、みごと優勝を収めた。

「初心者にも関わらず、世界トップクラスの選手と戦えるチャンスをいただけて、本当に有難かったです。今回(横浜大会)は、たまたま上手くいって結果を出すことができましたが、私にとっては、ここからが本当のスタート。複合競技ゆえに、異なる体の使い方や動きを結びつけていく必要がありますし、日を追うごとに、難しさを実感しています。でも、すごく楽しいですね。カテゴリーは分かれますが、私が思うに、トライアスロンは、車いすの人も、切断の人も、ブラインドの人も、障がいの種類や程度に関係なく、そこにいる皆が同じレースの楽しさを分かち合える競技。男子選手も含めて、タイム差でスタートするんですけど、抜きつ抜かれつのせめぎ合いがあって、面白いですね」

トライアスロンは、スイム、バイク、ランの各競技のスキルを磨くと共に、いかに異なる自然環境に順応し、味方に付けられるかということが重要だという。とりわけオープンウォーターの海で泳ぐスイムパートは、プールとは違って、気候や水温などの条件が、選手のパフォーマンスに大きく影響する。ナショナルチームの強化スタッフの指導のもと、時に熱中症になりながら泳ぎ続けるなど、国内各地の海で出来る限りの練習を重ねてきた。しかし、9月にオランダ・ロッテルダムで行われた「ITU世界トライアスロンシリーズグランドファイナル」では、予想外の展開が土田選手を待ち受けていた。

「今の自分にどれくらいの力があるかを試せるチャンスだと思って参加しましたが、とにかく暑かったフィリピンとは打って変わって、ロッテルダムは気温一桁の寒さでした。20℃くらいの水温だと、基本的にはラクに泳げるのですが、大会当日の海水温は約17℃。(トライアスロンで)10年のキャリアがある選手でも、“こんなの初めて”というような水風呂状態の中、私は過呼吸症状を起こしてしまい、スタートできなかった。結果振るわず、残念でしたが、今後は、この経験を活かして、どんな条件下でも、750mを泳ぎ切ることのできる泳力をつけていきたいと思います。まずは、水風呂に入れるようにならないとです」

後編につづく

土田和歌子(Wakako Tsuchida)
1974年10月15日、東京都生まれ。高校2年の時に友人とドライブ中の交通事故で車いす生活に。93年からアイススレッジスピードレースを始め、98年長野大会1000m、1500mで金メダル、100m、500mで銀メダルを獲得。96年から陸上競技に転向し、04年アテネの5000mで金メダル、車いすマラソンではシドニーで銅メダル、アテネで銀メダルを獲得。パラリンピックには夏冬通算7大会に出場し、計7個のメダルを勝ち取ると共に、日本人初のパラリンピック夏冬両大会金メダリストになった。17年4月にフィリピンで開催されたASTCパラトライアスロンアジア選手権に初参戦して優勝し、5月の2017世界パラトライアスロンシリーズ横浜大会(女子PTHC)の出場権を得て優勝。04年10月より八千代工業所属。18年1月16日、パラトライアスロンへの転向を発表した。

(text: 岸 由利子 | Yuriko Kishi)

(photo: 壬生マリコ  写真提供:八千代工業)

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