プロダクト PRODUCT

CESでも注目!履くだけで走りを可視化する「NURVV」とは?

Yuka Shingai

数あるスポーツやアクティビティの中でも老若男女問わず人気が高く、競技人口も多いランニングは、ウェアやシューズなど関連アイテムがバラエティ豊かに揃う。近年は、そこにウェアラブルデバイスも加わり益々市場が賑わっているが、今回紹介する「NURVV」もワークアウトを更に充実したものにしてくれるアイテムだ。

スマートウォッチなど手首、もしくは足首に装着するウェアラブルデバイスが多いなか、ペアのインソールとアクティブトラッカーをセットにした「NURVV」は足裏と靴からアプローチを試みている。

2015年の開発当初から「ランニングのための重要な指標は足元で発生しているはずなのに、どうして手首で計測しなくちゃいけないんだろう?」とNURVVのメンバーは何度もその疑問にぶつかっていた。走行中の身体がどのように動いているかを理解するためには、まず走行中のデータを正確に記録することが先決と考えた彼らは、英国でスポーツサイエンスのトップでもある大学から生体医学の専門家を呼び、12か月に及ぶリサーチと開発の末、新たなセンサー技術を完成させた。

インソールに搭載された32個のセンサーがランニング中の歩調、歩幅、左右の脚のバランス、脚の内旋、外旋、足のどの部分が最初に地面についているかなど、脚から得られるありとあらゆるデータを分析し、より速く、そしてケガを最小限に抑えながら走るためのアドバイスや自分自身に最適なトレーニング負荷までをリアルタイムでコーチングしてくれる。£249.99(約35000円)という値段もさることながら、US5.5~14(24~32cm)というサイズ展開の幅広さも頼もしい。

先日開催されたCES2020でも評価を博した結果、900万ドルの投資を受けることが決定し、更なる機能の追加や販路の拡大、データの活用方法など今後の展開からも目が離せなくなりそうだ。

[TOP動画引用元: https://www.youtube.com/watch?v=XZmpwMY0x8A

(text: Yuka Shingai)

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“日本の車いすを変えた男” 株式会社オーエックスエンジニアリング創業者・石井重行【the innovator】中編

長谷川茂雄

バイクを愛し、エンジンやパーツの開発者としてだけでなく、モーターサイクルレースのライダー、ジャーナリストとしても活躍した故石井重行氏。株式会社オーエックスエンジニアリングを創業した同氏は、1984年にバイク試乗中の事故で脊髄を損傷した。そこから「既存の車いすは自分が乗りたいと思えるものがない」という理由で、車いす作りを開始する。その後、石井氏が手掛けたプロダクトは、いつしか世界中のパラアスリートが注目する唯一無二の“名機”として認められるまで進化を遂げる。と同時に、それまで日本で定着していた車いすのデザインや機能はもちろん、ユーザーやメーカーの価値観も一変させた。車いすの歴史を変えた男、石井氏の軌跡を追った。

先代は、デカイことを言って
自分を盛り上げるタイプ(笑)

先代の石井社長が「本当に乗りたいと思える車いすを作る」ことは、そんなに簡単なことではなかった。創業メンバーの一人として、長年に渡り石井氏と苦楽をともにしたM2デザイン研究所OXの開発部門を担う別会社)の飯星龍一氏に、新たなモノづくりにトライし続けた石井氏の不屈のスピリッツと人となりを伺った。やはり、モノづくりに対しては、人一倍こだわりが強かったようだ。

M2デザイン研究所は、OX本社に隣接している。飯星氏は、10代の頃から先代の石井社長を見てきた良き理解者でもある。

「もちろん、(石井氏は)モノづくりに対してのこだわりは強かったですね。事故を起こす前の、オートバイに熱中していた時代から。有言実行するタイプでした。デカイことを言って自分を盛り上げるタイプ(笑)。モノづくりをするようになったのは、20歳のころにレース用のオートバイを自宅のガレージで作り始めたのが最初だと思います。ヤマハのモトクロス用のバイクを、自分好みのレース用に改造していましたよ(笑)。自分は17歳の頃に知り合って、それからずっと付き合いがありました。それで東京の江戸川に店(スポーツショップ イシイ)を出したときに、社員になったんです。もともと自分も先代も本当にバイクが好きでした」

モトクロスバイクのレースによく出場していた、1970年代当時の石井重行氏。

気に入った車いすがなかったのは、逆によかった

バイク好きの仲間だった石井氏飯星氏は、若かりし頃からモノづくりをともに楽しんできた。それだけに事故を起こした当時、飯星氏もショックを受けたそうだが、自分が納得できる車いすを作りたいという先代社長の思いは、会社にも次なる大きな目標を作り出したという。

「事故を起こしたあとは落ち込んで、そうとう荒れていたとは聞いていますね。でも、自分の気に入る車いすがなかったというのは、逆によかったんじゃないですかね。もし自分が気に入るものが世の中にあったら、こんなことはやっていなかったですし、先代も目標を作り出せなかったかもしれません」

石井氏が納得できる車いすを作るというのは、会社のモットーでもある未来を開発するということにも繋がっている。とはいえ、バイク作りのノウハウはあっても、車いすはまったくの別ジャンル。最初はやはり苦労の連続だった。

「車いすを作るノウハウを身に付けるのは、とにかく難しかったですね。最初は生活用モデルの開発から始めましたけど、障がいの度合いによって適合する車いすが違ってくるという知識もありませんでしたので、常につまずきました。先代の社長は比較的障がいが軽いほうだったんですが、社長が乗れても障がいの重い方には乗れないとか、そういうことがよくありました。そのたびに、どこをどうすればいいのか、常に試行錯誤を繰り返しました」

日々、新たな車いすの開発や競技用車いすの製作を行っている。世界のトップ選手が直接出向いて、車いすについてリクエストを出すこともしばしばあるという。

社長を嫌がる人はいませんでした

今までまったく知らなかったフィールドでモノづくりをするのは、やはり一筋縄ではいかなかったが、そんなときも先代は頭をフル回転させて、常に現場で突破口を切り開こうとしていたという。ときにそれは、社員には重荷になることもあった。

「先代は、いいモノづくりをするために努力を惜しまなかったですけど、一つのことにいつまでもこだわったりはしませんでした。そういう意味では、職人気質ではなかったのかもしれません(笑)。とにかく、常にいろんな発想をしていましたね。昨日言ったことと、今日言ってることが違うことはよくありました。だから付き合うのは大変でしたよ(笑)。すべてを真に受けていたらパニックになりますから、こちらも自分で噛み砕いて行動しないといけない。でも、だからといってそんな社長を嫌がる人はいませんでした。会社を辞める人もほとんどいなかったですよ」

個性豊かでエネルギッシュな経営者と付き合うのは大変だったようだが、そんな社長を多くの社員が慕っていた。それは、いいモノづくりをしたいという共通のヴィジョンがあったからかもしれないが、何よりそれを先頭に立ってやろうとする社長にリスペクトがあったという。

「やっぱり(社員は社長に)人間力、魅力を感じていたのだと思います。離れていく人はいなかった。それに社長の言うこととやることには説得力があったんですよ。言ってることがコロコロ変わっても、尊敬の念があるから、みんな文句を言わずに追っていけた。夜も遅い仕事ですけど、面白みを感じることのほうが多かったんじゃないでしょうかね」

OX本社の敷地内には、競技用車いすの溶接、組み立て、塗装といった製造工程を一貫して行える機能がすべて揃っている。耐久性テストを日夜行う施設も完備。ちなみに、日常用車いすの製造は、基本的に新潟の長岡工場で行われている。

後編につづく

前編はこちら

石井重行(いしい・しげゆき)
1948年、千葉生まれ。1971年にヤマハ発動機に入社し、エンジニアとしてのキャリアをスタートさせる。5年後、28歳のときに独立し、東京・北篠崎でオートバイ販売会社「スポーツショップ イシイ」を設立。1984年にテストライディングの際に転倒事故を起こし、下半身不随となる。1988年に株式会社オーエックスエンジニアリングを設立すると車いす事業部を発足させ、本格的に車いすの開発を始動。1992OEMで手掛けた初めての日常用車いす“01-M”を発売。翌年には4輪型テニス車“TR-01”、4輪型バスケットボール車“BW-01”を発売した。以後、パラスポーツ用車いすとしては、陸上競技、テニスともに国内トップシェアになるまでに成長させる。2012123164歳没。

(text: 長谷川茂雄)

(photo: 長谷川茂雄)

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