スポーツ SPORTS

“障がい”を商売に役立てる!車いす陸上選手、木下大輔のタブーを打ち破る挑戦 前編

下西 由紀子 | Yukiko Shimonishi

のどかな風景が広がる宮崎大学グラウンドの一角。体育会の部室が並ぶ長屋の端の倉庫で、黙々と競技用車いすをこぐ選手の姿があった。同大学を卒業後、大学の障がい学生支援室の特別助手として働きながら、2020年の東京パラリンピック、陸上競技出場を目指す木下大輔選手だ。木下選手は学生時代、仲間とともに、障がい者がスムーズに飛行機に搭乗できるアプリを開発し、2018年3月、学生ビジネスプランコンテスト「キャンパスベンチャーグランプリ」(日刊工業新聞社主催)で、文部科学大臣賞受賞という、アスリートとしては異色の経歴を持つ。障がいをビジネスにすることのタブーを打ち破り、挑戦し続ける姿を追った。

パラ五輪でメダルを獲り、
宮崎の障がい児たちに選択肢を示したい

中学2年生の時、ふらりと入った図書館で、女性のパラリンピアンが書いた本に衝撃を受けた。「車いすでも海外で戦える世界があるじゃん。オリンピックがあって、メダルを目指せる」。もともとスポーツが大好きで、小学校の頃は車いすに乗りながら、地元の野球チームで健常者と一緒にプレーしていた。メジャーリーガーになりたいと夢を抱き、中学でも野球を続けようとしたが、両親に「障がい児が野球をしても将来の道はないし、周りに迷惑をかけるだけだからやめなさい」と言われ、反発心を募らせていた。「パラリンピックのことは、周りの大人が知らなかっただけ。でも、知らないことで、子どもたちの選択肢が狭まる。将来パラリンピックでメダルを獲って、メディアで取り上げられたら、宮崎の障がい児たちに選択肢を示せる」

その瞬間から「パラリンピックに出場し、メダルを獲得する」ことが、木下少年の夢となった。

しかし、車いす陸上の指導者は近くにおらず、中学、高校と練習は自己流。時折、宮崎県の車椅子陸上チームの練習や合宿に参加することで、研鑽を続け、高校時代に県大会で100mの記録をマークした。大学進学後も陸上部に所属するも、独自のメニューで練習。大学2年時の日本選手権、100mで2位、その後のジャパンパラリンピック大会で3位の成績をおさめ、中国での世界大会に出場。結果は2位だったが、優勝した選手は自分より細く、競技用車いすも古い型を使用していた。「海外ではいったいどんな練習をしてるんだろう? 僕は世界と戦うって言っているのに、世界のことを何も知らんやん」。

海外のトップアスリートの生き方に刺激を受けた
「トビタテ!留学JAPAN 日本代表プログラム

帰国後、大学の国際連携センターへと足を運び、文部科学省が官民協働で取り組む海外留学支援制度、「トビタテ!留学JAPAN 日本代表プログラム」の第1期生を募集していることを知った。先生には強力に勧められたが、不安が先立ち、足踏みし、その1年後、大学4年を迎える春休みに、「行かなければ絶対に後悔する。飛び込んでしまえ」と決断。審査に受かり、201610月~20172月までの5か月間、オーストラリアのニューカッスルに留学、リオパラリンピックのメダリストが在籍するチームに所属した。

多国籍の選手らと練習に励む中で感じたことは、日本と海外とのスポーツに対する向き合い方の違いだった。日本では、ストイックであることが美学のように語られ、身を削るようにして練習に取り組む傾向があると感じていたが、海外の選手たちは、トップの選手ほど、自分を追い込みながらも、競技自体を楽しんでいた。練習は時間より質を重視し、時には1時間で終わることも。また、選手たちは基本的にスポーツだけではなく、それぞれ個人の取り組みをしていた。チームには社会人が多く、企業で企画やマーケティングに携わっている選手、NPO活動や教育に携わっている選手もいた。「アスリートだけでは、社会的に認められない。プラスアルファのことをしなければ、社会に還元できないという空気があった」

障がい者が健常者と対等に交渉をしている姿も何度も目の当たりにした。「できることとできないことをはっきり伝えることで円滑にやりとりし、ビジネスでもお金が回っている。スポーツ以外の場でもトップになれるという姿を見せてもらった」障がいというハンディをはねのけ、活躍する多くの人に刺激を受け、木下選手は車いす陸上からさらに新たな一歩を踏み出す。

後編へつづく

木下 大輔(Daisuke Kishita)(国立大学法人 宮崎大学 障がい学生支援室 特別助手)
陸上競技【T34(脳原性麻痺・車椅子)クラス】選手
1994年宮崎県都城市生まれ。先天性脳性まひによる両下肢不全で、生まれながらにして両足がほとんど動かない。内部障がいもあり、指定難病ヒルシュスプリング病のため、生まれてすぐ大腸のすべてと小腸の半分を摘出。中学2年生の時に、車椅子陸上を始め、宮崎県立高城高等学校時代は、宮崎県大会で100mの記録を残した。宮崎大学工学部時代は、3年時に中国で開催された国際大会で、100m、200mともに2位。大学4年時に文部科学省が展開する「トビタテ!留学JAPAN 日本代表プログラム」の制度を利用し、車いす陸上競技の研鑽のため2016年10月~2017年2月までオーストラリアに留学。帰国後の国際パラ認定大会では2位を獲得した。一方、大学の仲間とともに、学生起業家の登竜門である、学生ビジネスプランコンテストにエントリー。障がい者がスムーズに飛行機に搭乗できるアプリを開発し、全国大会で文部科学大臣賞を受賞した。大学を卒業後、宮崎大学で障がい学生支援室の特別助手を務めながら、2020東京パラリンピック、陸上競技800mでの出場を目指す。

(text: 下西 由紀子 | Yukiko Shimonishi)

  • Facebookでシェアする
  • LINEで送る

RECOMMEND あなたへのおすすめ

スポーツ SPORTS

パラの二刀流選手。山本篤が攻めるギリギリのラインとは?【HEROS】後編

岸 由利子 | Yuriko Kishi

2008年北京パラリンピックの走り幅跳びで銀メダルを獲得し、日本の義足陸上選手初のパラリンピック・メダリストとなった山本篤選手。以来、IPC陸上競技世界選手権大会走り幅跳び金メダルの2連覇(2013年、2015年)、アジアパラ競技大会 100m 金メダルの2連覇(2010年、2014年)を達成し、16年日本パラ陸上競技選手権大会で、6m56の跳躍で世界新記録を樹立したほか、16年リオ大会の走り幅跳びで銀メダル、アンカーを務めた4×100mリレーで銅メダルを獲得するなど、名実ともにパラ陸上のトップランナーとして活躍してきた。だが、かねてからの夢だったスノーボードでピョンチャン大会を目指すにあたって、「迷惑はかけたくない」とスズキ浜松ACを運営するスズキを自ら退社し、17年10月1日には、新日本住設とスポンサー契約を結び、プロ転向を発表。初参戦にして、スノーボード日本代表に選ばれ、ピョンチャン大会への出場をみごとに果たした。飽くなき野望を抱き、挑戦し続ける山本選手のパワーの源とは?東京2020に向けた目標や義足開発のこだわりなど、多彩なテーマについて話を伺った。

東京2020成功のカギを握るのは、“強い選手”

約182万人の観客を動員した北京大会、そして、過去最高の約280万枚の観戦チケットを販売し、史上最も成功したパラリンピックと言われるロンドン大会に日本代表として出場した山本選手。「東京2020を盛り上げるために、何が必要か?」と尋ねると、こう語ってくれた。

「ひとつは、日本人選手で金メダルを獲れる人じゃないですか。やっぱり強くなかったら、面白くない。勝てるから、面白い。第一に、強い選手が必要だと思います。“パラリンピックの選手=一生懸命に頑張っている人”というイメージがあることは否めないですし、少しずつではあるけれど、パラスポーツは、本当にカッコいい存在になりつつある気がします。それが上手く確立していけば、もっと盛り上がる方向に行くのかな。そのためには、メディアの方々とも、同じ方向を向き、上手く連携していけたら良いなと思います」

アスリートとして、持ちうる力を出し切れるよう、懸命に頑張るのは当たり前。それを周りの人が評価するのと、選手自身が自ら伝えるのとでは、人々の受け取り方にも大きく影響する。だからこそ、選手の意識の持ち方も問われてくるだろうと、山本選手は付け加えた。

ひとりでも多くの人に
『アスリート  山本篤』を知ってもらいたい

講演活動をはじめ、半生を綴ったノンフィクション本「義足のアスリート 山本篤」(東洋館出版社)の出版やメディア出演などを通して、パラスポーツの普及活動に取り組んできた。パラスポーツの興奮とパラアスリートたちの息づかい、それを取り巻くカルチャーとの交錯点を伝えるフリーマガジン「GO Journal」の創刊号(2017年11月創刊)では、モデルとして、ファッションシューティングにも挑んだ。撮影したのは、同マガジンの監修を務める日本屈指のフォトグラファー・蜷川実花氏。競技用のアウトフィットではなく、ブラックスーツを身にまとい、走り幅跳びをする山本選手を捉えた写真は、非の打ち所がないカッコよさ。

パラスポーツの魅力やパラアスリートの活動を伝えるべく、さまざまな普及活動に力を注いでいる山本選手だが、その先に見つめる未来とは何なのか。

「ある統計で、“パラリンピックを知っていますか?”と聞くと、98%くらいの人が“知っている”と答えています。確かに、パラリンピックの認知度は上がっているけれど、講演などで、“どんな選手知ってますか?”と聞くと、まだ名前は出てこないですよね。選手のことを知らなかったら、“パラリンピックを観に行きたい”とはならないと思うんです。多分、日本人選手が勝ったと聞いて、嬉しいなという程度で終わってしまう。でも、特定の選手を知っていたら、結果が気になるだろうし、より近い存在であれば、応援にも行こうかなという気持ちも湧くと思うんですよね。

東京2020までの僕の目標のひとつは、ひとりでも多くの人に、山本篤という選手を知ってもらうことです。本を出版したのも、日本がパラリンピックに注目しているこのタイミングがベストかなと思ったからです。どれだけの人に手に取っていただけるかは分からないですけど、僕自身の考え方を知ってもらうことで、パラリンピックに対する見方もまた変わると思うので」

パラリンピックをもっと身近な存在にしたい

2016年10月10日、渋谷109の隣にトレーラー5台が並び、突如、走り幅跳びレーンが出現。「東京2020 12時間スペシャル→2020」(NHK)の「TOKYOどこでも競技場@渋谷」で、6m30を超えるダイナミックなジャンプを披露した。

北京、ロンドン、リオの3大会を経験してきた山本選手は、東京2020の先も見据えている。

「東京2020が終わったあとは、全体的な盛り上がりは下がると思うんですけど、僕が経験してきたくらいほどまでは、下げたくないです。北京にしろ、ロンドンにしろ、開催の年は盛り上がりましたが、その熱は、いわば一瞬で終わってしまった。それを少しでも落とさないように、パラリンピック自体をもう少し価値のあるものだったり、常日頃から注目してもらえるようなものにしたい。もっと身近な存在にしたいと思っています」

08年に北京大会で銀メダルを獲得した山本選手には、今、ふたつの大きな夢がある。ひとつは、20年東京では、悲願の金メダルを獲得すること。もうひとつは、22年北京冬季大会でのメダルを獲得し、同じ開催都市での夏冬メダル獲得を達成することだ。「勝ち続けるために、努力していることは?」と最後に聞いた。

「一番は、現状に満足しないということ。今日、走って、優勝しても、そこで終わり。それよりも、じゃあ、次、どうしたいかということを常に考えている感じです。多分、それがなくなったら、選手をやめると思いますね」

限界を超えたその先の新天地を切り拓くべく、次々と新たな目標を打ち立て、挑戦を続ける強靭なスピリットの持ち主、山本篤。自己革新を続ける世界的アスリートの躍進を今後も追っていく。

前編はこちら

山本篤(Atsushi Yamamoto)
1982年静岡県掛川市生まれ。高校2年の時のバイク事故で左大腿部から下を切断。高校卒業後に陸上を始め、パラリンピックは08年北京から3大会連続出場。北京大会の陸上男子走り幅跳び(切断などT42)で銀メダルを獲得し、日本の義足陸上競技選手初のパラリンピック・メダリストとなった。16年リオ大会では同種目で銀メダル、陸上男子400メートルリレー(切断など)で銅メダルを獲得。スノーボードのバンクドスラロームとスノーボードクロスで18年ピョンチャン大会を目指し、17年9月末にスズキ浜松アスリートクラブを運営するスズキを退社。同年10月より新日本住設とスポンサー契約を結び、プロ選手に転身。18年2月9日、国際パラリンピック委員会(IPC)からピョンチャン大会のスノーボード日本代表の招待枠に追加され、夏冬両大会への出場を果たした。

(text: 岸 由利子 | Yuriko Kishi)

  • Facebookでシェアする
  • LINEで送る

PICK UP 注目記事

CATEGORY カテゴリー