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チェアスキー日本代表のエース。ランドクルーザーで颯爽と登場!【森井大輝:2018年冬季パラリンピック注目選手】

小泉 恵里

埼玉県のとあるオフィスに、ランドクルーザーで颯爽と現れたチェアスキーヤーの森井大輝さん。車のドアをさっと開け、銅色に輝くスタイリッシュな車椅子に乗ると、笑顔で談笑しながら室内に入って行く。自信に満ちた表情と鍛えられた身体、その姿は身障者ということを忘れてしまいそうな明るく強いエネルギーに満ち溢れていました。事故から今までの道のり、選手としての生活やプライベートな趣味まで、ヒーローの秘密を聞いてみました。

秋田出身のお祖父さんの影響で小さいころから雪に親しんでいたという森井選手。小学5年から中学3年までモーグル、私立高校のスキー部に所属し、アルペンでインターハイを目指していた矢先にバイク事故で下半身不随に。

チェアスキーの存在はリハビリの先生に聞いて知っていたものの、はじめは全く乗り気がしなかったそうです。「ソリの延長線上のような気がして興味が湧かなかったんです。事故直後は失意のどん底だったので、リハビリすらやる気が起こらず、やりなさいと言われても言う事を聞かなかった」。そんな時、入院中の病室で見た長野パラリンピックのある映像を見てチェアスキーをやることを決心したそうです。

「スキーの滑りもそうですが、何よりゴールした時の選手の笑顔に衝撃を受けました。選手たちが国境を越えてみんなで抱き合い、大きな口を開けて馬鹿笑いしている。反対に、テレビを見ている僕は障害を持ったことでどん底で、人がいないところで泣いてしまおうと思う日々。友達がお見舞いに来ても作り笑いしか出来なかった。僕もいつかテレビで見た選手たちのように心から笑えるようになりたい!とチェアスキーをやることを決意しました」。

やるぞ、と決めてからの森井選手の行動の早さには驚かされます。病院に車椅子の営業に来ていた人がチェアスキー協会の副会長だったことを知って「ソルトレークのパラリンピックに出たいので早くチェアを買いたい」と直談判。まずはフレームを購入、シートは当時SMLサイズ展開の既製品しかなかったため、オーダーメードしてくれると聞いて神奈川リハビリテーション病院へ。

「きっと僕はすぐにパラリンピックに出れると思うので」と担当者を説得しオーダーメードのシートを特別に作ってもらえることに。

「はじめから自分の体に合ったものを使っていたので、初日から滑れるようになったんです」。

チェアスキーの乗り心地は「バイクとスキーを足して2で割ったような感じ。操作性はスキーで、乗り心地はバイクみたいな。すごく楽しくて、その日のうちに滑れないコースはないくらいになり、上級コースまで滑れるようになりました」。幼い頃からのスキーの経験と、バイク好きなことが偶然活かされるスポーツだったのでしょう。初めて乗ってから7日後に国内のチャンピオンシップに出場したところ入賞し、翌年にはジャパンパラリンピック出場権を取得。そこからナショナルチームの合宿に参加するようになりました。まさにトントン拍子でチェアスキーヤーとしての道のりを歩むことになりました。

ソチの時には時速110キロ!も出ていたというチェスキー。何度もシート調整をして本番にのぞむ

世界大会で出鼻をくじかれ、肉体改造スタート

初めての世界大会の時、度肝を抜かれたのが外国人選手の体格の良さだったとか。「海外ではチェアスキーの環境も良いと思うけれど、努力の力がすごいと思いました。筋肉量が全然違うんです。スキーしかやってこなかった自分は当然成績も良くなかった。パラリンピックに出て出鼻をくじかれ、自分の甘さを思い知りました」。当時の森井選手は身長171cmで47キロ。とにかく細くて髪も長かったため、先輩が女の子と間違えるくらいだったそうです。

初めてのパラリンピックが終わってから、夏場のトレーニングに力を入れるように。筋肉で体重をあげていき、2006年のイタリアのパラリンピックで2位になりました。「努力が自信につながって自信が結果につながる。やればやるほど冬の成績があがっていったので自信に繋がり、やがて世界との差も縮まっていきました」。

現在の体重は63キロ。チェアスキーに必要な筋肉は?の問いには「体幹と、上腕筋が必要です」との答え。なるほど、腕はぱんぱん張っているし、胸元の筋肉もスゴいのです。「今日着ているシャツはノースフェイスの一番大きいサイズ。スーツも腕がキツくて入らないので、スーツを買う時には紳士服フロアで『僕の着られるスーツを探して来てください』いうオーダーです(笑)」。

海外選手から見習いたい所は勢いとのこと。「このレースで一旗あげたら俺はヒーローになれる!みたいなところがあるんです。普段のレースでは速くないし目立たない選手が、世界大会やパラリンピックなど重要な場面では急にべらぼうに速いタイムを出して来たりするので驚きます。ソチパラリンピックの時は、怪我で転倒する選手を運ぶために、何台かのヘリが上空を飛んでいたんですよ(笑)。誰もがビッグイベントに賭けている。それがまたカッコいいんですよ」。

養護学校出身。エリート街道ではないが、さまざまな障害と命の大切さを知った

養護学校出身の森井さん。「大卒で頑張っている選手がほとんどの中、僕は高卒なんです。家業が建築業だったのでそれを継ぐつもりで、もともと建築科の高校に行っていたのです。事故後にその学校に戻ろうと思ったけれど校舎はバリアフルな環境でした。全てが専門科目なので教室の移動が必要で、段差だらけ。エレベーターもなかったので人の手を煩わせなければならなかった」。

そんな時、家の近くの都立あきるの学園を見学したところ全てのフロアにエレベーターがついてスロープもあって人の手を煩わせずに勉強が出来る環境だったため入学を決意したそうです。「養護学校での生活はいい経験になりました。同級生も障害をもった人たちで、色んな障害があることを知りました。脳性麻痺や筋ジストロフィーなどさまざまな障害について学ばせてもらいました。僕なんかよりも重い障害がある人がたくさんいて、命がある大切さを知る機会にもなりました」。

今では、森井選手はあきるの学園の後輩達が憧れる存在になっています。街で声をかけられたり、SNSで学校の後輩からメッセージが届いたりすると、嬉しい気持ちになるそうです。

「僕自身が同じ養護学校にいる彼らのためにヒーローになることもあるし、障害の種類はさまざまだけど、ここまでになれるんだよいうことを見せたい。『この人、僕の学校出身なんだよ』と後輩達に自慢してもらえるような存在になりたいです。僕はある意味エリート街道ではないけれど、自分の中ではあの学校に行ったことがよかったなと思っているんです」。

普段のトレーニングメニュー、そして趣味

47キロの体重を筋肉だけで63キロにまでした肉体改造。さぞかしハードなものなのではと聞いてみたところ「まず朝起きて、目をこすりながらハンドサイクル(車椅子と器具をドッキングしてこぐと自転車)で2時間ほど走って、お昼を食べて、午後一時くらいからジムでストレッチや体幹トレーニングを2時間、その後別のジムで筋トレを2時間。一日6時間のトレーニングを週5日行なっています」。

スキー以外の時には。国立スポーツ科学センター(JISS)のサポートのもとで科学的なトレーニングをしています。乳酸値の上昇をおさえるトレーニング理論に基づいたメニューで、日々鍛えているようです。食事も栄養士の指導のもとにバランス良くを心がけているそうです。

土日はオフ。「趣味はカメラです」という森井さんですが、「とはいっても、撮る事ではなくてカメラが趣味(笑)。カメラを買ってレンズを入れて望遠のレンズを入れて眺めたり、三脚に装着してカッコいいな〜と愛でたりするだけなんです」。あくまでもカメラを見るだけのフィギュア的な楽しみのようです。同行したフォトグラファーのカメラにも興味津々で機種をチェックしていました。「カメラにあわせて専用カバンも作ってもらうつもりです」とカメラへの情熱は加速中の様子です。

「また欲しい車が見つかっちゃったんですよ」とテレビでF1レースを観ながら先輩男性と目をキラキラさせながら話す姿からは、やんちゃな一面が垣間みられました。このままとことん突き進んで行ってほしい、森井選手!パラリンピック5回目の挑戦。来年のピョンチャンで悲願の金メダルを獲得できますように。

先月行なわれたワールドカップで総合優勝し2度目のクリスタルトロフィーを獲得した森井選手。オリンピックは連続4回出場、銀メダルを獲得しているが、次こそは金メダルを!と5回目出場となるピョンチャンに向けて

森井大輝
1980年東京都あきる野市生まれ。現在トヨタ自動車所属。
4歳から家族と一緒にスキーを始め、モーグルに熱中。高校の時、アルペン競技でインターハイを目指してトレーニングに励んでいたが、高校2年時にバイク事故で脊髄を損傷。以降チェアスキーを始める。2006年 トリノ パラリンピック大回転銀メダル、2010年 バンクーバー パラリンピックダウンヒル銀メダル・スーパー大回転銅メダル、2014年 ソチ パラリンピック スーパー大回転 銀メダル。2017年 世界選手権 スーパー複合2位、16-17年障がい者アルペンスキーW杯 シーズン総合優勝。

(text: 小泉 恵里)

(photo: YUUKO KONAGAI)

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パラアスリートの感覚を体験できる卓球台「PARA PINGPONG TABLE」に、あの芸人が挑戦!

川瀬拓郎

本メディアでは、今年3月に「パラ卓球を盛り上げて、世界へ!立石兄弟が挑む東京2020への道」と題した記事でパラ卓球を取り上げた。その際、紹介した PARA PINGPONG TABLE が、CHIMERA GAMES の HERO X ZONE に登場。松岡修造氏のモノマネでおなじみ、そしてパラ卓球アンバサダーとしても活動中の芸人こにわ氏と、この斬新な卓球台をプロデュースし、パラ卓球協会の広報を担当する立石 イオタ 良二氏に話を伺った。なお、立石兄弟については前述の記事をご参照いただきたい。

初のパラリンピック、
初の金メダルも1964年の東京だった!

―パラ卓球が始まったのはいつ頃なのでしょうか?

イオタ「戦争で負傷した兵士のリハビリの一環として、卓球は古くから障がい者の間で親しまれてきました。はっきりといつから始まったと明言することはできませんが、現在のパラ卓球の形になったのは、1964年の東京パラリンピックでした。障がい者スポーツの国際大会が、パラリンピックという名称で呼ばれるようになったのも、まさにこの時だったのです」

こにわ「パラリンピックで日本初のメダルは、当時の卓球がもたらしたものだったんですよね。そしていよいよ来年は東京2020ですから、これは運命的なものを感じますし、すごい巡り合わせですよね」

―こにわさんがパラ卓球のアンバサダーになった経緯とは?

こにわ「僕は元々、バスケットボールをやっていて、田臥勇太選手と同世代で、漫画の『スラムダンク』にも影響されました。約10年前から松岡さんのモノマネをして、テレビに出るようになったのですね。だから、松岡さんが出演しているテレビ番組を全部観るようにしていたのです。そうなると、テニスはもちろん、世界水泳、全英オープンゴルフ、オリンピックのキャスターもやっていたので、ほとんどのスポーツ種目を観ていたんですね。そうして、ほとんどの種目を網羅できるくらいスポーツに詳しくなっていったんです。当然、その中には卓球も含まれていて、伊藤美誠選手とも連絡を取り合うようになりました。そうこうしているうちに、共通の知り合いに “そんなにスポーツに詳しいなら、パラ卓球をやっているイオタ君に一度会ってみないか?” と言われて、お会いしたことがきっかけです」

イオタ「人もいない、お金もない、(競技に必要な)物もない。そうした状況で、こにわさんと出会ったのです。そのときは、具体的に何をしようということまで決められなかったのですが、その後、こにわさんがイベントで募金活動を始めてくれたんです」

こにわ「“みんなの一円がメダルへの一球に” というキャッチフレーズで、表彰台型の募金箱を後輩に作ってもらって、募金活動を行いました。当時、『灼熱の卓球娘』というアニメの仕事をしていたタイミングもあって、配給元のエイベックスさんにも協力していただきました。金額はそれほどではなかったのですが、イオタさんを通じて畠山さん(パラ卓球協会会長)に直接お渡しすることができたのです」

ポジティブアプローチで生まれた
全く新しい卓球台

―こちらの PARA PINGPONG TABLE ですが、卓球台の左右の長さが違いますね。

イオタ「この卓球台が画期的なのは、パラ卓球選手がいなくても、彼らと同じ感覚を体験することができ、彼らの視覚を可視化した形状になっていることです。どうしてもパラスポーツへの関心は、家族や友達に障がい者がいるなど “関わる理由がある人” に限られてしまう。メディアの方がこうして取材に来て、パラ卓球を体験しても、それは “車いすに乗るという非現実” でしかありません。この卓球台で目指したのは、ネガティブなアプローチではなくポジティブなアプローチでした。重りをつけたり、動きを制限したり、ネガティブな要素で障がいを意識させるのではなく、健常者も自然に入り込んでプレーを楽しんでもらえるのです」

こにわ「実際にやってみるのが一番早いですね。実際にこうして(長い方の)卓球台を前にして立ってみると、ネットが遠く感じます。ネット際にボールを落とされたら、身体を伸ばしても、全然届かない!(笑)」

驚異的なプレーを見せた
エジプトのパラ卓球選手

イオタ「これだけ幅広い障がいをフォローできる競技は他にありません。例えば、片腕を欠損している方は、車いす競技はできませんよね。でも、卓球なら立位でも細かくクラス分けされているので、どんな障がいがある人でもプレーできる競技なのです」

こにわ「前回のパラリンピックで衝撃を受けたのは、エジプトのイブラヒーム・ハマドトゥ選手でしたね。彼は両腕がないのですが、ラケットを口に咥えてプレーするのです。サーブするときは、シューズを履いていない右足でトスをするのです」

イオタ「パワーとスピードはもちろん、卓球で大切なのはボールを回転させる技術が欠かせません。普通は手首でひねりを加えて回転させるのですが、この選手の場合は首のひねりで回転をかけるのです。普通の人がやったらムチ打ちになってしまいそうですが、常識では考えられないようなプレーをしているのです。その姿を見たとき、自然に涙が溢れてきてしまった。決して憐れんだ訳でもありません」

―イオタさんはプロの道を諦め、パラアスリートの兄をサポートしながら、日本代表のコーチとしてリオに飛んだわけですね。


イオタ「プロを諦めて家業を継ぐことを決めたときは、ショックのあまり2ヶ月くらい部屋に引きこもっていました。友だちの選手が活躍している姿を見ることすら苦痛でした。そうして悶々とした日々を送っていたのですが、やはりその時も自分を支えてくれたのは卓球でした。その後、兄のコーチをしながら、仕事で稼いだお金で、兄の海外遠征をバックアップしてきたのです。他の兄弟の学費も捻出しなければならず、貯金はいつもゼロでした。ある時、ITビジネスで成功して、億単位で稼いでいる友だちの高級車の助手席に乗せてもらったときは、本当に劣等感を感じましたし、惨めな気分になりました。でも、イブラヒーム選手のプレーを見て、もうそんなことはどうでも良くなったんです。劣等感なんかどこかへ吹き飛んでしまった。五体満足な身体がある自分なら、何だってできるはずだと。それからというものの、兄と一緒にこうして卓球と関わることができるのは、最高のことだと思えるようになったんですね。広報としての活動を通じて、この体験を多くの人に知ってもらいたい。多くのクリエイターに賛同してもらい、協力して実現した PARA PINGPONG TABLE は、そうした想いから生まれたものでもあるのです」

こにわ「僕がスポーツに詳しくなったきっかけは松岡さんの影響もありますが、小さい頃に親父と一緒に野球のテレビ中継を観ていたことが大きいかも知れません。というのも、当時の人気だった江川さんと掛布さんの解説を聞いていると、ピッチャーの配球術が次第に理解できるようになってきたからです。そこには、駆け引きがあり戦略がある。これはどんなスポーツでも一緒なのですが、フィジカルと技術に加えて、戦略がなければ勝てない。これはパラ卓球でも同じもことが言えるのです。例えば、車いすの茶田選手の場合、ラケットが届かないネット際に打たせないためのサーブを打ち、ラリーをしなくてはいけない。相手が返してくるコースを先読みしてプレーを組み立てるのです。この PARA PINGPONG TABLE を体験してみれば、茶田選手の驚くべき戦略が理解できる。だからこそ、この卓球台が特別なのです」

東京2020の全選手が
スーパースターになれると信じて

イオタ「どんなスポーツでも解説ができるくらい詳しいこにわさんに、そう言っていただけるのは本当にありがたいですね。パラ卓球の代表選手になるためには、日本大会はもちろん海外大会で勝利してポイントを貯めなければなりません。その渡航費も滞在費も全て自費です。だからスポンサーを見つけないといけないし、国からサポートを受けている海外選手に比べたら、かなりハードルが高いことは事実です。じゃあどうするのか?と、想像力を働かせながら色んなコミュニケーションを取ることが僕の仕事ですし、そのひとつの成果が PARA PINGPONG TABLE なのです」

こにわ「パラスポーツはもちろんですが、僕は日本のアスリートを全員スーパースターにするという気持ちを持って応援しています。NBA のレブロン・ジェームスや NFL のペイトン・マニングのようなスーパースターに、日本人は到底敵わない、スーパースターになんかなれないと諦めてしまったら、もうその先がない。でも、当の選手たちは超ポジティブなんですよ。だから応援する僕らが、その気にならなければ絶対に無理。日本のアスリートにはその可能性があるし、あらゆる想像力を駆使して全力でパラ卓球を盛り上げていきます」

HERO X ZONE を訪れた来場者の多くが、PARA PINGPONG TABLE を体験。最初はただの卓球台だと思ってプレーを始めたら、何かが違う…。「障がい者の方にとって卓球台が、こんなに広く感じられるとは驚きました」とコメント。

立石イオタ良二(たていし・いおた・りょうじ)
1985年、福岡県生まれ。創業大正10年となる博多・立石ガクブチ店の四代目。一般社団法人日本肢体不自由者卓球協会 渉外広報担当。大学時代、全日本学生選手権大会団体銅メダル、ダブルス7位。全日本卓球選手権7位。現在は、コーチとして兄を支える。

こにわ
1982年、東京都生まれ。サンミュージック所属のお笑い芸人。松岡修造、石橋貴明、中山雅史、松木安太郎など、多くのモノマネのレパートリーをもち、数多くのテレビ番組に出演。スポーツ全般に精通し、2017年からパラ卓球のアンバサダーを務めている。

(text: 川瀬拓郎)

(photo: 増元幸司)

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