福祉 WELFARE

トップアスリートを社会に活かす。筑波大学セカンドキャリアプロジェクト

浅羽 晃

競技で優れた成績を収めるトップアスリートは、多くの国民が拍手喝采を送るスーパーヒーローだ。しかし、引退のそのときまで、競技一筋に打ち込んできたようなアスリートには、思うようにその後の職が見つからないなど、試練が待っていることも多い。それは社会問題であるとの認識のもと、トップアスリートのセカンドキャリアを支援するプロジェクトを進めてきたのが、筑波大学大学院人間総合科学研究科の菊幸一教授だ。日本のスポーツ界で起きている問題の本質は、どこにあるのだろうか。

トップアスリートといえども
多くは引退と同時に職と支援の基盤を失う

オリンピックでメダルを獲得したり、プロスポーツ界で活躍したりするようなトップアスリートは、広く国民から注目を集めるヒーローである。しかし、どのような種目でも、生涯現役を続けることはほとんど不可能だ。多くは20~40代の間にファーストキャリア(現役生活)を引退し、セカンドキャリアを歩むことになる。このとき、スポーツ社会学の研究テーマとなるような大きな問題が起きると、菊幸一教授は言う。

「アスリート、なかでもファーストキャリアを競技一筋で、2020年の東京オリンピックを目指して打ち込んできたようなトップアスリートは、引退と同時に、職の基盤、あるいは支援の基盤を失ってしまう可能性が大きい。そのために、スポーツパフォーマンスに頼らない次の生活基盤を獲得するにはどうすればよいのか、という問題が生じるのです」

もちろん、セカンドキャリアの問題は日本に限るものではないが、ヨーロッパやアメリカには、程度の違いはあっても、有効性のあるセーフティネットが設けられている。「クラブ型」のサブシステムを取っているヨーロッパでは、高等教育進学へのキャリアパスが中等教育資格修了試験によって狭くなっている――平たく言えば、アスリートとしての能力だけでは進学できないため、国家を代表するトップアスリートの受け皿は、国家が準備する公務員職であることが多い。引退後のセカンドキャリアは、そこから3~5年の猶予期間を設けてカリキュラム化され、保障されるチャンスが与えられるのだ。また、「学校型」のサブシステムをとっているアメリカでは、NCAA(全米大学体育協会)による厳格なトップアスリートに対する奨学金制度の適用と大学全体の卒業率向上方策によって、安定したセカンドキャリアへと進みやすくしている。

「日本をヨーロッパ型にしようとすれば、トップアスリートを生みだす仕組みの構造改革が必要です。なぜなら、日本の競技スポーツは学校の運動部がベースになっているからです。水泳や体操、サッカーといった種目を除くと、競技は学校の運動部が基盤になっています。しかも、学力は問わないというかたちで進学させていますから、ヨーロッパ型にはできません。だからといって、アメリカの真似もできないのです。大学が、ほとんど学力は問わずに卒業させてしまいますから」

かつての日本は、企業がトップアスリートの受け皿になっていた。その仕組みが崩れたことにより、セカンドキャリアの問題は一気に顕在化したのである。

「日本では、スポーツ推薦で、あまり学力を身につけずに大学まで行ってしまうケースが多いのです。1980年代までは、大学を卒業したアスリートを体育会系と呼び、十把一絡げで企業が採用していました。あるいは、企業スポーツというかたちでアスリートを支えていたのです。しかし、1990年代以降、グローバル化のなかで、日本企業が世界と戦わなければいけなくなると、体育会系の能力だけでは通用しなくなりました」

2020年の東京オリンピック以降
問題は深刻化する恐れがある

菊教授が、当時の専攻長である佐伯年詩雄教授らとともに専攻全体の取組みとして「トップアスリートのセカンドキャリア支援教育のためのカリキュラム開発」というタイトルの研究を、文部科学省の特別教育研究経費を用いてスタートさせたのは2005年のことだ。セカンドキャリアの問題が、大多数の国民の目には触れない状態で、大きくなっていた時期である。そして、2010年には、教育プログラムだけではなく、支援システムの構築など、環境づくりもテーマに含めた「トップアスリートのセカンドキャリア開発支援システムの構築に関する研究」と題したプロジェクト研究に着手している。

「国、企業、学校、そして、アスリート自身が考え方を変えないと、日本のセカンドキャリアの問題は解決しません。私自身は、ジュニア期の競技者に対する対策が重要であり、アスリート自身もジュニアの時代からセカンドキャリアを意識してほしいと思いますが、現実的には難しいでしょう。日本では、中学校、高校の段階で全国大会が数多く開催され、そこで成績を出せというプレッシャーがものすごく大きいのです。なおかつ、その成績によって大学まで自動的に進めてしまうという仕組みがある限りは、状況は変わらないと思います」

現時点で、「トップアスリートのセカンドキャリア開発支援システムの構築に関する研究」は、アスリートを救済するまでには至っていない。しかし、インターネットなどを通じて、国民がこの研究を知り、セカンドキャリアの問題が社会問題であると認識されることが重要なのだ。

2005年にスタートした「トップアスリートのセカンドキャリア支援教育のためのカリキュラム開発」では、3年間にわたり報告を行った。

「アメリカも現在でこそ、NCAAの活動などによって、状況は改善されてきましたが、1980年代あたりをピークに、セカンドキャリアの問題は深刻だったのです。たとえば、アフリカ系アメリカ人のアスリートはフットボールや野球などでプロに引っ張られることを狙い、大学に進学するのですが、プロとして活躍できるのは一握りです。卒業せずに中途でプロに入っても、活躍できなければセカンドキャリアが始まります。しかし、一般社会で活躍できるスキルは身につけていませんから、まともな職業につけないのです。この問題は“social death”と呼ばれるようになりました。個人の問題ではなく、これは人種差別の問題であり、貧困の問題も絡んでいるという考え方からきた言葉です」

アメリカの状況は改善されてきたが、日本の状況は、このままでは悪くなる一方と考えられる。

「危惧しているのは、2020年の東京オリンピック以降です。たくさんの若者が、夢を追いかけましょうということで、東京オリンピックを目標にしています。話題性のあるアスリートであれば、メディアも追いかけますから、一躍、時の人になることもあるでしょう。しかし、現実問題として、オリンピックのようなイベントは花火同じで、打ち上がったあとは消えてしまいます。社会は、アスリートの養成に走るだけでなく、何らかの策を講じておく必要があのです」

アスリートのセカンドキャリア問題は
すべての人に関わる普遍的なテーマ

セカンドキャリアの問題を解決、あるいは改善する方策は、まったくないのだろうか。

「人材派遣会社のような商業ベースの組織が、アスリートと企業を結びつける活動をすれば有効かもしれません。スペインで調査をしたときに、印象的なことがありました。人材派遣会社が、あるプロバスケットボールのチームに所属していたメンバーを企業に売り込んだのですが、セールスポイントは選手としての成績ではありませんでした。素晴らしいチームに所属していたメンバーという点をアピールしたのです。そのチームは1位になるような強豪ではありませんでしたが、絶対に反則をしないことで知られていました。小学校や中学校の生徒たちの模範になるような試合をするチームだったのです。人材派遣会社は企業に対して、こういうチームの一員を社員にすれば、企業イメージがよくなるはずだと売り込んだのです。私は、アスリートを成績ではなく、人間として評価する、こういう橋渡しのやり方があるのかと、非常に感心しました」

菊教授は、企業は今後、パラアスリートの支援にも力を入れていくべきだと考えている。

「日本も国を挙げてパラアスリートの養成をしているので、障がい者スポーツの世界でもセカンドキャリアの問題が生じることになるでしょう。多くの企業が2020年の東京パラリンピックに向けてパラアスリートを支援していますが、それが終わったら、企業がパラアスリートをどのように扱うのかは、注視していかなければいけません。企業には、障がい者スポーツが発信するメッセージを受け取り、パラアスリートを末永く支援することで、企業のイメージを高めるという姿勢をとってほしいと思います」

セカンドキャリアの問題は、実は、アスリートだけのものではない。私たち一人ひとりの問題でもあるのだ。

「人間は、死ぬまで、ステージごとに発揮できる力を備えています。多くの人は、自分が最高のレベルにいたときのことをイメージしてしまいがちです。しかし、人間の発育発達のピークは青少年期ですから、年を重ねればそのピークから離れていく一方なのです。比較の対象がひとつのピークしかないと、いつまでたっても幸せにはなれません。何かのピークが過ぎたとしても、次のステージで活躍すればいいのです。このことは、トップアスリートのセカンドキャリアの問題と通じています。いまできることは何なのかを考え、精一杯やることです」

多くの人が、まだ気づいていない、トップアスリートのセカンドキャリアの問題。しかし、それは普遍性のあるものなのだ。そうであるのなら、菊教授のプロジェクト研究は、思いのほか、汎用性のあるものなのではないだろうか。

菊幸一(Koichi Kiku)
1957年、富山県生まれ。教育学博士。九州大学健康科学センター講師、奈良女子大学文学部助教授を経て、現在、筑波大学大学院人間総合科学研究科スポーツ健康システム・マネジメント専攻教授。著書に『近代プロ・スポーツの歴史社会学』(不昧堂出版/1988年)、『「からだ」の社会学』(世界思想社/2008年)、『よくわかるスポーツ文化論』(ミネルヴァ書房/2012年)など。モットーは「探究心を忘れない」こと。

(text: 浅羽 晃)

(photo: 増元幸司)

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蓄積した技能に活躍の場を提供する「高齢者クラウド」の可能性

浅羽 晃

超高齢社会が引き起こす労働力の減少や年金システムの崩壊といった問題を、テクノロジーで解決できないか。そのような発想のもと、研究開発が進められている高齢者クラウド。働き口を求める人材と求人する事業体とを1対1で結びつける従来の人材サービスとは異なり、クラウドをバッファとして、クラウドの向こうの労働力を技能の総体として捉えるのが画期的だ。研究開発の中心にいる東京大学大学院情報理工学系研究科の廣瀬通孝教授にお話をうかがった。

個人の特質や技能を因数分解して
事業体の求める労働力を創出する

日本は総人口が減少するなかで高齢者率は上昇を続け、2065年には65歳以上が総人口の38.4%に達すると推計されている(内閣府/平成29年版高齢社会白書)。人類が経験したことのない超高齢社会がどのような社会になるのか、不明な部分は多いが、確実に言えるのは、マンパワーが現在よりも著しく減少することと、現行の年金システムでは立ち行かなくなるということだ。そのような危機的状況への対応策として研究が進められているのが「高齢者クラウド」である。

「高齢者クラウドは、JST(国立研究開発法人科学技術振興機構)の事業として、東京大学と日本アイ・ビー・エムが共同で研究開発を進めています。10年ほど前、“超高齢社会に向けて、テクノロジーはどのような役割を担えるか”という議論をしたことがそもそもの始まりです。当時からいろいろな解決策が考えられていましたが、外国人も働けるようにしましょうとか、女性も活躍できるようにしましょうとか、ほとんどが文系的な対策でした。我々は、テクノロジーをキーファクターとして、高齢社会の解決として理系的な対策をどのように展開できるのかというテーマを考えて応募したところ、(JSTの事業認可に)通ったということです」

高齢者クラウドは、高齢者の人材と、人材を求める事業体とを結びつけるツールだ。従来型の人材サービスとは、どのような違いがあるのだろうか。

「元気で技能もあるのに、フルタイムで働けないなどの理由から、技能を活かせる働き口を見つけられない高齢者は多くいます。人材と事業体を1対1で結びつける人材サービスでは、この問題をクリアできません。クラウド型コンピューティングを用いる高齢者クラウドは、クラウドをバッファとすることによって、クラウドの向こうにいる多数の高齢者の労働力と、事業体をマッチングさせます」

換言するなら、高齢者クラウドでは、労働力を1名単位ではなく、技能の総体として捉える。最もシンプルな例を挙げよう。事業体が9時から17時まで、プログラミングのできる人材を求めているとする。ウィークデーの毎日、フルタイムで働ける人材は見つからない。このようなとき、高齢者クラウドは、プログラミングの技能を持った登録者のなかから、9時から12時まで働けるAさん、12時から15時まで働けるBさん、15時から17時まで働けるCさんというようにして組み合わせ、1名の労働力として事業体に提供するのだ。もっとも、この程度のことなら、シフト管理の問題なので、旧来型のマネジメントでも可能だろう。高齢者クラウドが優位なのは、労働力をより細分化できるところだ。

これまでに7回開催されているシンポジウムには、高齢者クラウドに期待する民間企業も参加している。

「分解するのは時間だけではありません。スキルもあります。これは、個人の特質や技能を因数分解するイメージです。たとえば、これまでは日本国内のみで販売していた自社製品を、今後の経済成長が見込めるインドネシアに輸出する新規ビジネスを展開するにあたり、現地との交渉や実務処理ができる人材を企業が求めているとします。従来の人材派遣では、同様のビジネスを経験した人材を探すということになるでしょう。しかし、高齢者クラウドでは、インドネシアに在留経験があり、インドネシア語に堪能なAさんと、元商社マンで、海外との商取引の経験が豊富なBさんを組み合わせて、1人の人格として提供することができるのです」

若者はエントロピーが低い労働力で
高齢者はエントロピーが高い労働力

高齢者クラウドがうまく機能すれば、高齢者は自らの技能をフルに発揮することができる。それは社会にとって有意義なことであり、また、高齢者自身にとっても生き甲斐を感じる、すばらしいことだろう。

「高齢者は、若者とは比較できないほど、職種とのマッチングが重要です。高齢者は経験を積んでいます。経験を積んでいるということは、“色”がついているということです。この色を変えるのは、難しい。コンピュータをやってきた人に、いきなり“農業をやりましょう”と言っても、なかなか対応できないでしょう。高温のガスが少量ある場合と、温水がたくさんある場合、総熱量は同じでも、前者はエントロピーが低い、後者はエントロピーが高いと言います。高温のガスはエンジンを回せますが、温水では回せません。これを労働力に当てはめると、フルタイムで管理しやすい若者はエントロピーが低い労働力で、いろいろなことを細かく管理しなければならない高齢者はエントロピーが高い労働力です。高齢者に社会で活躍してもらうためには、この違いを理解する必要があります」

高齢者はエントロピーが高い、複雑な存在なのである。その複雑さのなかから、求められる技能をクラウドから的確に抽出するためにも、因数分解、すなわち検索のキーワードは重要だ。

「登録する個人がどのようなキーワードを用いるかも大切ですが、検索する側の技術も問われることになります。たとえば、VRの技術者を求めるとしましょう。現在、注目されている分野ですから、単純にVRというキーワードで検索しても、人材は引く手あまたで、すでに残っていないかもしれません。しかし、“画像処理”や“インタラクティブ”といったキーワードで検索すると、求める人材が見つかることもあるでしょう」

高齢者クラウドはこれまでになかった人材サービスなので、自ずと、有効利用をするためには対応力が求められる。

「スキル分解がうまくいけば、1対1の求人ではなくなり、選択肢がすごく増えるので、雇う側の意識改革も必要になってきます」

個人情報の公開に対して
コンセンサスを得る必要がある

現在、高齢者クラウドは「人材スカウター」と「GBER(ジーバー)」の2つのシステムを柱に、研究開発を進めている。人材スカウターは、登録されたシニア人材の職務経歴のテキスト情報と企業からの経営相談テキスト情報の双方に自然言語処理を行うことで、経営相談内容に対して適合度の高い人材を検索する人材検索エンジン。シニア・エグゼクティブの人材サービスを業務とする株式会社サーキュレーションにおいて、実証評価を行っている。一方のGBERは、地域におけるシニア人材と仕事・ボランティア・生涯学習などの各種求人情報とのマッチングを行うwebアプリケーションだ。

「東大の柏キャンパスがある千葉県柏市で実証評価をスタートし、熊本版もあります。GBERはGathering Brisk Elderly in the Region(地域で元気な高齢者を集める)の略ですが、“お爺さん、お婆さん”を連想する、いいネーミングだと思っています(笑)。ちなみに、高齢者クラウドも、日本人にはcloudとcrowdの発音の区別が難しいので、どちらにも受け取れるようにと(笑)」

高齢者クラウドは、民間企業からも、退職者のセカンドライフに役立てたいなどの理由で、問い合わせがあるそうだ。クラウドなので、大企業の退職者や地域住民といった一定規模の登録者がいたほうが、機能を発揮できる。問題は、普及させるには乗り越えなければならない壁があることだ。

「自分の経歴や技能を因数分解して登録するということは、個人情報を公開するということです。高齢者クラウドを広く実用化するためには、この問題に対して、社会的コンセンサスを得る必要があります」

問題をクリアした暁には、高齢者クラウドが社会を活性化することは明らかだ。高齢者クラウドという技術があり、実用段階まで研究開発が進んでいることを、社会に知ってもらうことが第一歩だろう。

廣瀬通孝(ひろせ・みちたか)
1954年、神奈川県生まれ。1977年、東京大学工学部産業機械工学科卒、82年、東京大学大学院工学系研究科博士課程修了。99年 5月、東京大学工学部教授。99年 7月、東京大学先端科学技術研究センター教授。2006年 4月、東京大学大学院情報理工学系研究科教授(兼)。機械力学、制御工学、システム工学が専門として、VRの先駆的研究を行う。「好きなことを大事にする」がモットー。「自分が興味を持った瞬間に驚くほど能力を発揮できます」と、経験的に語る。

(text: 浅羽 晃)

(photo: 増元幸司)

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